「わらべ歌」は日本人の心のことば
大切なことは言葉にならない
解剖学者・養老孟司先生の思想や、著書『大切なことは言葉にならない』などで語られる日本語論をベースに、「わらべ歌(童歌)」を「心のことば(感覚・自然)」として読み解きます。
養老先生は、現代社会が「脳化(言葉や論理だけで割り切れる世界)」に偏りすぎていると指摘します。
その視点から見ると、**わらべ歌は「脳の論理」に汚染される前の、人間の身体性と自然が結びついた「心のことば」の塊**です。

情報の家畜で何が悪い?
前章では、1990年代の「たまごっち」に始まり、現代の「スマホ脳」へと至る2500年越しの脳化の檻、すなわち**「身体の盗難」**の現場を徹底的にあぶり出しました。
画面の向こう側のクリーンな記号に自閉し、1年に1度の歴史の拍動である**「除夜の鐘」すらバグ(騒音)**として排除しようとする**現代人のデジタル脳**。
いくらそのことを教えてあげても、脳化の当事者たちは自分が情報の家畜であること、それが何が問題なのかすら気づいていない――。
この**「バカの壁」**に阻まれたガチガチのシステムから、私たちの剥き出しの身体感覚を少しでも復権するための一縷の望みはあるのでしょうか。
それは、近代の知識人が頭(意識)でデザインした綺麗事の「童謡(庭園)」ではなく、江戸時代以前から、**名もなき庶民の生々しい肉体を通過し、口伝されてきた「わらべ歌(原生林)」**です。

現代の「わらべ歌(童歌)師」・井上陽水
わらべ歌が持つ「野生の身体性」
現代において、このわらべ歌が持つ**「野生の身体性」**と完全にシンクロし、音楽というメディアを使って脳化社会への最大級の反逆を試み続けている表現者こそが、井上陽水に他なりません。
正論での説得(脳へのアプローチ)が通じない連中には、**脳のシステムを強制終了させる音の劇薬をぶち込む**しかないのです。
意味を解釈する前に、音の拍動に身を委ねる。
陽水の歌を聞くと、そのとき、人間の傲慢な脳(意識)は沈黙し、私たちは**「情報の家畜」から「ただの生き物」へ**と還っていくのです。
これまで拙ブログでは、**陽水が放つ「言葉を超えた野生の引力」**を何度も解剖してきました。
都市という100%インフラ化された冷徹なシステムの中で、他者の死すら記号として消費する脳化人間に「君に会いに行かなきゃ」という生々しい皮膚感覚を突きつけた『傘がない』のシャウト(幕間記事より)。
『青空ひとりきり』や『夢の中へ』『たいくつ』が歌う、何者かにならなければいけないという脳の強迫観念(システム)をふっと煙に巻く軽やかさ。
そして、『夕たち』『野いちご』『夏まつり』に見られる、完璧な文章で説明するのではなく、あえて意味を曖昧にすることで聴き手の脳内に「言葉にならない日本の原風景(自然)」をダイレクトに立ち上げる呪術的な音韻。
陽水が紡ぐこれらすべての楽曲は、意味に固執する現代人の脳をバグらせるために仕掛けられた、令和の「わらべ歌」そのものでしょう。
「意味」を検索する脳をバグらせる、音の身体性
現代人は、スマホの検索窓に常に「意味のある単語」を打ち込み、AIから「予測可能な100%の意味とコスパ」を即座に引き出しています。
文字や記号を「脳」で咀嚼し、システムに登録することばかりに血眼になっている。これが脳の過緊張状態です。
**どんぶりこ**とはなんぞや

しかし、私たちが注目すべき「わらべ歌」の構造を見てみてください。
『ずいずいずっころばし』や『どんぐりころころ』……。これらは歌詞の文脈を論理的に追っても、辞書的な意味やつじつまは一切ありません。
「ごまみそずい」や「どんぶりこ」とは一体何なのか、脳で定義しようとすればフリーズするしかありません。
この「意味のなさ(非意味)」において、陽水の歌詞世界は完全にわらべ歌と共鳴しています。
代表曲『アジアの純真』の「北京 ベルリン ダブリン リベリア」や、『あたらしいラプソディ』に漂う言葉の羅列。
ここに論理的なストーリーを求めようとする「スマホ脳」は、一瞬で検索を諦めて沈黙します。
音の受容
養老先生なら、これを「情報の処理ではなく、音の受容」と言うでしょう。
脳が意味を解析し始める前に、口を動かす筋肉の快感、破裂音の心地よさ、精度高く平均律で区切られたデジタルな音ではなく、声という物理的な振動が鼓膜をダイレクトに震わせる。
言葉を意味から剥ぎ取り、純粋な音(シニフィアン)として身体に叩き込む。
その瞬間、私たちはスマホが盗み去った純粋な五感(身体)を、自分自身の手元へと奪い返しているのです。
都市(脳)が排除した「闇と不条理」への回帰
脳化社会とは、都市のように「人間が計算し、管理し尽くした安全で清潔な世界」です。
そこからは、予測不可能な「本物の自然」や、かつて身近にあった「死や闇の不気味さ」が徹底的に排除(クリーン化)されています。
現代人が「除夜の鐘」を不快なバグとして排除したがるのも、それがコントロールできない外部のノイズ(自然)だからです。
わらべ歌には、生々しい現実(自然)

しかし、わらべ歌の中には、近代社会が隠したがる生々しい現実(自然)がさらっと混じっています。
『とおりゃんせ』の**「行きはよいよい 帰りはこわい」**の裏にある、医療が発達する前の「子供は簡単に死んでしまう」というリセット不可能な命の重み。
『かごめかごめ』の**「後ろの正面だあれ」や『あぶくたった、にえたった』**が内包する、目に見えない闇や他者への畏怖。
子供たちはかつて、意味の通らない不条理な歌を歌いながら、世界の思い通りにならない現実(自然)を身体で受け止めていたのです。
陽水の世界は、人間本来のリアルな野生へ
陽水が描く世界もまた、クリーンに舗装された管理社会の隙間から一瞬のぞく「混沌(カオス)」と「狂気」に満ちています。
『氷の世界』で歌われる「毎日 吹雪 吹雪 氷の世界 誰か指切りしようよ」という、感情を失ったシステム(脳化社会)への恐怖と、皮膚の接触(身体性)への渇望。
あるいは『リバーサイドホテル』の「シャレたテレビのプラグはぬいてあり 二人きりでも気持ちは交い合う」という、外部の情報(メディア・論理)のプラグを引き抜くことで、人間本来のリアルな野生へと退行していく空間。
脳化社会がどれほど世界をクリーンに塗りつぶしても、人間の足元には常にコントロールできない自然(生老病死)が横たわっています。
わらべ歌や陽水のナンセンスは、綺麗に舗装された脳の天井をぶち破り、**「思い通りにならない野生の現実」を脳髄に突きつける劇薬**そのものです。
五線譜(デジタル)に収まらない「自然の揺らぎ」と、釈尊から続く口伝の系譜
わらべ歌は、楽譜も文字もない庶民から自然発生

では、なぜ「わらべ歌」こそが脳化社会への究極の解毒剤となるのでしょうか。
それは、わらべ歌が西洋の「ドレミ」という音階(プログラム)に一切縛られていないからです。
そもそも、楽譜も文字も持たない名もなき庶民たちのうたが、なぜ何百年もの歴史の地層をくぐり抜け、現代の私たちの耳にまで届いているのでしょうか。
そこには、脳化された教科書(記録)を一切介さない、「生身の口伝(くでん)」の凄まじい生命力がありました。
思い返せば、2500年前に貨幣という抽象的な記号が誕生し、人間の脳の暴走が始まったとき、これへのカウンターとして登場した釈尊(お釈迦様)もまた、生涯にわたって一字の文字(記録)も残しませんでした。
釈尊は、目の前の生身の困窮した人間と対峙し、その場、その時の相談に真摯に乗る「対機説法(たいきせっぽう)」という、極めて身体的な対話を貫いたのです。
それがのちに「原始仏典」として現代まで残ったのも、弟子たちがその「声」を耳で聴き、自らの肉体に暗誦して命がけで繋いだ「口伝」の力に他なりません。
文字に固定された瞬間に、言葉は脳の「システム」と化す。
しかし、声として肉体を通過する口伝は、常に生きた「身体」そのものです。
この釈尊から始まった、文字を持たない野生の系譜は、私たちのきわめて卑近な日常のなかにも、二つのルートとなって脈々と流れていました。
一つは、「親から子への、家庭の体温」です。
かつて、母親が我が子を優しくあやすために、あるいは寝かしつけるために、その「声(肉体の振動)」で直に歌い聞かせた記憶。
幼い私たちの耳と皮膚にしみついた、あの懐かしく、理屈抜きの安心感です。
もう一つは、「子供から子供への、路地の野生」です。
大人たちの管理の及ばない夕暮れの路地裏で、泥まみれの子供たちが遊びの中で自然発生的にリズムを変え、独自のルールを混ぜ合わせながら、身体の快感の赴くままに歌い継いできた歴史です。

このわらべ歌は、西洋の五線譜という音を記号化し、均一に割り切るために脳が作ったデジタルなシステムには収まりきりません。
日本人の話し言葉が持つ独自のイントネーションや、地面を力強く蹴る足拍子から自然に湧き上がってきた、五線譜に収まらない「自然の揺らぎ(ノイズ)」そのもの。詫びサビの心です。
これこそが、脳化される前の「身体そのものの叫び」でしょう。
スマホ画面を指先でなぞる(スワイプする)だけで、すべての体験を済ませたつもりになっている現代人と、母親の声を耳に残り香として宿しながら、地を蹴り、他者と息を合わせていたあの頃の子供たちとでは、身体の使い方の次元がまるで違うのです。
スマホが強奪した「身体感覚」の目録(カタログ)
この「泥臭い身体行為」の記憶を、先人たちが遺したわらべ歌のシステムは、緻密な身体回路として今も保存されています。
【末梢の肉体を覚醒させる】
手あそび・指遊び・絵かきうた
『げんこつやまのたぬきさん』『ちゃちゃつぼ』『お弁当箱のうた』『いっとこ、にっとこ(棒が一本あったとさ)』
指先の微細なコントロール(触覚・固有感覚)を要求するこれらの遊びは、脳に強奪されていた身体の主権を末梢から奪還します。
宮沢賢治が頭を狂わせた「法華経」という脳の論理システムを最後にすべて捨て去り、「土にまみれる肉体(デクノボー)」へと還っていったように、肉体の不自由な抵抗感そのものを脳に思い出させるのです。
【他者という「自然」との同期】
みんなで遊ぶ・ジャンケン・なわとび・鬼あそび
『なべなべ底ぬけ』『おちゃらかホイ』『大波小波』『ひらいたひらいた』
SNSという「身体なき言葉の遊戯場」では、他者の体温も呼吸のズレも感じられません。
しかし、これらの遊びは、相手と息を合わせ(シンクロ)、時には身体がねじれる不自由さやぶつかる痛みを伴い、**じゃんけんで「思い通りにならない他者(自然)」の存在**を突きつけられます。
日蓮の弟子・日持が文字の記録(中央)を捨て、生身の肉体ひとつで北の大地へ渡り、言葉の通じないアイヌの民やモンゴルの地で不条理な戦いを止めたような、「他者と身体レベルで同期する(コモン・センス)」の原点がここにあります。
日蓮の「南無(参りました)+音」と、陽水が歌う「共通感覚」
わらべ歌は、言葉の理屈を教えなくても、あの五・七調の韻律やリズムを聴けば、誰でも一緒に呼吸を合わせることができる「身体の共通言語」です。
陽水の音楽が、どれほど時代が変わっても『少年時代』の**風あざみ**のようにスマホ画面に自閉した現代人の脊髄にまで届いて古びないのは、それが「脳が流行らせた記号」ではなく、人間の肉体が持つ「音の生理」に基づいているからです。
この「わらべ歌」と「井上陽水」が持つ身体性の本質は、かつて日本仏教の奇麗な論理(大乗美談)を徹底的に批判した、日蓮の思想とも深く結びついています。
日蓮が門下の四条金吾や富木尼、日妙聖人らという女性信徒に宛てた手紙(現実の生身の苦闘)の根底にあり、彼が唱えた**「南無(なむ)+音」**とは、頭の中の抽象的な理屈をすべてぶん投げて、「あなたの圧倒的な現実(身体)の前に、**参りました**と頭を下げる(降伏する)」という意味でした。

そう、陽水の歌に身を委ねること、あるいは路地裏でわらべ歌のリズムに身体を同期させることは、現代における**「脳の降伏(南無)」**そのものなのです。
理屈で世界を支配しようとする傲慢な脳(意識)が、音という自然の前に「参りました」と白旗を揚げたとき、人間は本当の安らぎを取り戻すのではないでしょうか。
結びにかえて ―― 三毛猫師匠の一喝

人間は、意味のない言葉を喋るオウムをバカにするけれど、スマホ画面で「意味」ばかり検索して身体を盗まれている現代人のほうが、よっぽど情報の家畜だニャ。
お前たちがスマホに首から下を盗まれている間に、江戸の泥まみれの子供たちは『おちゃらかホイ』で他者の身体とシンクロし、母親のよく歌ってくれた声を鼓膜の奥に響かせながら、自然の闇を畏れ、『ずいずいずっころばし』で意味のない音のグルーヴを全身で楽しんでいたんだニャ。
文字も遺さず「生身の声」だけで民と向き合った釈尊の教えが、何百年も口伝で暗誦されて仏典になったように、文字に書けない身体の記憶こそが本物なんだニャ。
ドレミの綺麗なお行儀のいい音楽ばかり聴いて、自分の身体のノイズや、かつて聴いた「大切な人の声」を忘れてるんじゃないかニャ。
日蓮が「南無」と叫んで脳の理屈をぶん投げたように、陽水の歌やわらべ歌を口ずさんで、その生意気な脳みそをいっぺん眠らせてしまうがいいニャ。
結局、人間が一番安らぐのは、脳が**「わかったふり」**をやめて、ただの生き物に還った時なんだからニャ。
養老先生なら、きっと目を細めてこう仰るのではないでしょうか。
「結局、人間が一番安らぐのは、**脳が『わかったふり』をやめた時**ですよ。
陽水の歌もわらべ歌も、脳といううるさい官僚を眠らせるための、最高の子守唄(ナンセンス)なんですな」と。スマホ画面の「氷の世界」を閉じ、私たちは今一度、名もなき庶民の身体が伝承してきた生命の拍動へと回帰しなければならないのではないでしょうか。










