「脳(意味)」に偏る現代人
都市化(脳化)が生きづらさの根源
現代社会は、あまりにも「脳(意味)」に偏りすぎてはいないでしょうか。
「ああすれば、こうなる」という予測、効率、論理。
私たちは、脳が作り出した計算式の中に自分たちを閉じ込め、そこから外れるものを「無駄」や「異常」として排除しようとします。
解剖学者の養老孟司先生は、これを**「都市化(脳化)」と呼び、現代人の生きづらさの根源**であると説きました。
『天才バカボン』の登場
パパとレレレのおじさん
その対極にあるのが、天才漫画家 赤塚不二夫が生んだ不朽の名作『天才バカボン』です。
一見、支離滅裂なナンセンス・ギャグに見えるこの物語には、実は「脳(意識)」に支配された私たちが忘れてしまった**「身体性」と「世界のありのままの姿」が隠されている**のです。
今回は、養老哲学のレンズを通して、バカボンのパパやレレレのおじさんが、私たちに何を突きつけているのかを深く考察します。
脳が「意味」で火傷している現代

今の社会は、まるで「意味」という病に冒されているようです。
映画を倍速で観て、結末だけを効率よく消費する若者たち。
カラオケで曲の「前奏(イントロ)」「間奏」「後奏(アウトロ)」を飛ばしたり、曲の途中で次の曲へスキップしたりしてますよね。
スマートウォッチに自分の心拍数を尋ね、「今日の体調」を数値で確認して安心する大人たち。
中には、本日のランチを訪ねてその店に行く人もいますよね。身体が欲しているものではないのです。
さらには、出された食事を撮影しSNSで飛ばしてから食べていませんか。
すべてをコスパとタイパで計り、一分の隙もない「意味の網」で世界を覆い尽くそうとする。
これは、**養老孟司先生が警鐘を鳴らす「都市化(脳化)」の極致**です。
つまり、全て「脳」で創造した世界に住んでいるのです。
脳は、予測不能な「身体」や「自然」を嫌い、すべてを計算可能な「記号」に置き換えたがります。
その結果、私たちは自分の体温すらデジタルデータ越しにしか感じられなくなってしまいました。
病院に行っても、担当医は患者ではなく、パソコンの画面と対話していますよね。患者が目の前にいるのにね。
スーパーでも、買った品物はセルフレジです。
そんな、息も絶え絶えなスマホ脳世代のみなさんに、60年近く前に「意味の壁」を完膚なきまでに粉砕していたヤバい哲学書**赤塚不二夫の『天才バカボン』**を提示しましょう。

わずか15年でスマホ脳化された現代人
スティーブ・ジョブズは自分の子供たちにスマホ使用を制限した。
スマホ脳世代と言ってもわずかこの15年なんですけどね。
にも関わらず、そのわずか**15年で身体(五感)を置き去りにし脳(意味)だけで暮らしてしまったので、感覚が麻痺し体調の変化にも気がつかなく**なったのです。

過去記事「なぜ、現代社会は息苦しいのか――第1章③:情報の家畜 ―― 脳にハックされた現実」で書きましたが再掲しておきましょう。
スマホ開発者のスティーブ・ジョブズ(Apple)が、自分の子供たちにiPadやiPhoneの使用を厳しく制限した実話があります。
理由は、中毒性への懸念、リアルな会話の重視からです。
この他、ビル・ゲイツ (Microsoft)も子供が14歳になるまでスマホを持たせませんでした。
ティム・クック (Apple)は、「自分の甥にはSNSを使ってほしくない」と公言しています。
デバイスを生み出した当本人たちが、そのリスクを最も警戒していたという事実です

逆さまメガネとしての「ナンセンス」
なんでも反対にすると
養老先生は著書の中で、視界が上下逆さまに見える「逆さまメガネ」のエピソードをよく引用されます。
最初は混乱するものの、やがて脳が順応し、世界を再構成し始めるというものです。
バカボンのパパが行う**「なんでも反対にする」**という行為は、まさにこの逆さまメガネそのものなのです。

敗戦後の日本の異様な風景
戦後民主主義への強烈なカウンター
戦後、日本人の価値観は180度転換しました。
昨日までの正義が今日からの悪になる。
そんな状況を、当時の庶民は驚くほどあっさりと受け入れ、「ケロッとして」生きていました。
しかし、パパはそこに異議を唱えます。
あえて常識を逆さまに実行することで、**「お前たちが信じているその『正しさ』は、たかだかレンズ一枚、時代の空気ひとつでひっくり返る程度の、脳内の虚構ではないか」**と笑い飛ばしているのです。
「順応」という名の思考停止
当時の庶民は、戦後180度変わった価値観にも、何の疑問も抱かず**「順応」という名の思考停止**を選びました。
そして、赤塚不二夫はその「ケロッとした」顔の下にある不条理を、誰よりも身体的に察知していたのです。

「記号」から「実在」へ
私たちは名前や肩書き、住所といった「記号」で人間を判断します。
しかし、パパの世界ではそんな記号は意味をなしません。
パパが投げかける痛烈な「反対」は、記号化された日常を破壊し、私たちが本来持っていた**「むき出しの生命力(身体)」を自覚させる**ための、劇薬のような教育的配慮(?)だったとも考えられます。
想像して観てください。
画面の中のライオンに食い殺される恐怖はないが、森の中で一本の毛虫が首筋に落ちた瞬間、脳は沈黙し、身体が強制起動します。
『天才バカボン』という作品は、まさにその「毛虫」だったのです。
脳が処理しやすい記号を、力ずくで「身体的な違和感」へと引き戻してきます。
シネマティック・ナンセンス:逆さまメガネの衝撃

もし、今の渋谷のスクランブル交差点を、Netflixの社会派ドラマのような重厚なトーンで撮り直してみたらどうなるか。
無機質なオフィス街、高級スーツを着たエリートが、無表情でただひたすらに竹箒で落ち葉を掃き続けている。
あるいは、コンクリートのビルの谷間、西の空から昇ってくる巨大で異様な太陽を、人々がスマホを落として立ち尽くし、見上げている——。

これこそが、バカボンのパパが世界にかけた「逆さまメガネ」の真の姿だったのです。
パパが繰り返す「なんでも反対にする」という言動は、単なるギャグではありません。
私たちが当たり前だと信じている「昨日の正義」や「現代の常識」をレンズ一枚でひっくり返し、**「お前たちが信じている世界は、ただの脳の錯覚だぞ」**と突きつけているのです。
レレレのおじさんと「脳化」の剥落——掃除という身体性
物語の中でひたすら道を掃く「レレレのおじさん」。
本作において、パパ以上に「養老流・身体論」を体現しているのが、レレレのおじさんです。
彼のモデルは、釈尊の弟子(聖者)・周利槃特(シュリハンドク)です。
自分の名前すら覚えられない「脳」のハンディキャップを背負った彼に、釈尊は「掃除」という身体行為だけを与えました。
脳化を剥ぎ取る「反復運動」
ただひたすらに、箒を動かす。
ここには「ああすれば、こうなる」という打算や意味はありません。
ただ、身体が動いているという事実があるだけです。
彼は意味を追いかけることをやめました。
何万回、何億回と繰り返されるその「無心の反復」こそが、脳のフィルターを磨り減らし、真理をむき出しにさせました。
養老先生は「意識は変わらないものを求めるが、身体は刻々と変化する自然そのものである」と説きます。
おじさんの掃除は、脳内の静止した情報ではなく、流動する世界と直接つながるための儀式なのです。

「お出かけですか?」という問いの正体
おじさんが道ゆく人に「お出かけですか?」と問いかけるのは、情報の交換ではありません。
それは、小鳥のさえずりや風の音と同じ、自然界の「音」に近い生命の脈動そのものなのです。
タイパを気にして最短距離を歩こうとするみなさんの足元を、彼は「ただ掃除をし、ただそこに居る」という圧倒的な実存を見せつけています。
目的や意味(=脳)に縛られて歩く現代人に対し、脳の皮が剥がれ、身体が世界と溶け合ったとき、そこに現れるのが「覚り」であり、レレレのおじさんのあの無垢な笑顔なのです。
いま中高年のおじさん達は、当時天才バカボンを視て反対言葉だけを喜んでクラスで言い合っていたのではないですか?
パパが、ニラレバ「韮菜炒牛肝」をレバニラと言ったので、それがいつしかお店のメニュー書きにも多くなってしまったトンデモナイ社会現象です。
正しく、思考停止のバカの壁でしょうね。
私はレバニラとメニュー書きしている店には行きません。インチキ職人だからです。
バカ田大学と「反・都市化」
パパの母校「バカ田大学」は、現代の教育システムに対する最大の皮肉です。
「意味」を教えない教育

現代の大学は「役に立つ知識」を教える場所、つまり脳を効率よく書き換える工場です。
しかし、バカ田大学が教えるのは、いかにして「意味」から自由になるかです。

ちなみに、バカ田大学は空想の中だけではないニャ。
文藝春秋から『講義録』も出版されており、そこには養老孟司先生も教壇に立った記録が刻まれているニャ。
これこそ、脳化社会の壁を突き崩すための、現代の『教科書』なのだニャ
養老先生は、**都市とは「すべてが意味で埋め尽くされた空間」**であると言います。
そこには、意味のない雑草一本生える余地もありません。
バカ田大学のエートスは、その都市化された意識の壁に穴を開け、**心地よい「無意味の風」**を吹き込ませることにあるのです。

「バカ」という言葉の再定義
ここでの「バカ」とは、知能指数の低さを指すのではありません。
**「脳の独裁から逃れ、身体の野生を取り戻した者」への尊称**です。
常識(という名の脳のルール)を軽々と超えていくパパの姿は、解剖学的に言えば、前頭葉による過剰な抑制から解き放たれた、本来のホモ・サピエンスの姿なのかもしれません。
結論:「これでいいのだ」が救う現代人の脳
物語の締めくくりに放たれる**「これでいいのだ」**という言葉。
これは、養老先生が説く「自然を受け入れる姿勢」の到達点です。
「ああすれば、こうなる」という脳の論理が通用しない事態が起きたとき、現代人はパニックに陥り、世界を否定します。
しかし、パパは違います。
予測不能なカオス、理不尽な隣人、ひっくり返った価値観、そのすべてをひっくるめて「これでいいのだ」と肯定します。
これは諦念ではありません。
「世界は自分の脳が作り出したシミュレーション通りにはいかない。でも、その予測不可能な世界こそが、私たちが生きるべき『自然』なのだ」という、強靭な全肯定です。
養老先生の「なるようにしかならん」そのものです。
養老先生は、「人生思い通りになったら生きてみる必要がない」と仰います。
ブログを読んでいる皆さんも、一度「脳」のスイッチを切り、パパのように世界を「逆さま」に眺めてみてはいかがでしょうか。
そこには、意味の呪縛から解き放たれた、清々しい「身体の自由」が待っているはずです。
北海道の雪と、猫のあくびが教えてくれること
私は北海道という、過酷な自然の中で育ちました。
上京してからは、東京のような都市化(脳化)された空間では、すべてがエアコンで制御され、少しでも雪が降れば交通の麻痺に怒る人々を目の当たりにします。
しかし、北国の身体は知っています。
雪は「情報」ではなく「重さ」であり、「ままならない自然」そのものなのです。

私の傍らには、三毛猫の師匠が寝ている。
彼女はスマホのアルゴリズムなど、鼻で笑うでしょう。
最近はイビキもかきます。
眠いから寝る。起きたいから起きる。
そこには一切の「理由」も「効率」もありません。
養老先生が言うように、猫と暮らすことは、家の中に「コントロールできない自然」を飼うことなのです。
この「ままならなさ」こそが、脳化社会の唯一の出口なのだと気がついて、未だ時には「イラっとしても、自分が脳化社会から脱するためだ」と修行の日々です。
「五・七・五・七・七」という外科手術
私が日々、SNSの投稿写真を観て短詩を添えるのは、一つの抵抗でもあります。
散文(長い文章)は説明であり、脳の道具です。
しかし、俳句や短歌は、流動する一瞬をパシッと切り取るものです。
それは脳がこねくり回す「意味の海」を一時停止させ、目の前の景色(自然)をダイレクトに突きつける、いわば「脳のスイッチを切る安全装置」なのです。
はじめたきっかけは、小説家の先生が投稿された一枚の海の夕景です。
その鮮やかさと添えられたコメントに心を動かされ、気がつけば短歌や俳句を詠んでいました。
有難いことで、作家先生の寛大なるご理解があり、何年も続けさせてもらっています。
意味に溺れ、タイパに疲弊したとき、人は言葉を短くしなければならないものです。
その究極の短縮形が、バカボンのパパのあの言葉です。
スマホを置き、西から昇る太陽を想像してみてください。
論理が壊れたその瞬間、あなたの「身体」はやっと呼吸を始めるはずです。
これでいいのだ!
【あとがき:30年前の「逆さまメガネ」】
振り返れば30年前、若かりし日の私もまた、脳化社会の権化のような組織のど真ん中で「パパのメガネ」をかけていたのかもしれません。
当時、誰もがワープロで堅苦しい文章を作っていた時代、私は一人Macを使い、社内研修を「漫画」で解説する異端のマニュアルを作りました。
周囲の猛反対を押し切り、ようやく役員の前で披露した際、大絶賛する彼らに向かって私はこう言い放ちました。
「あなた達が悪い!(そんなマニュアルしか作らせてこなかったからだ)」
凍りつく傍らの上司を横目に、私は心のどこかで確信していました。
意味や体裁に縛られた脳のルールを壊さなければ、本当の「手触り」のある言葉は届かない。
あの時、私の目の前には間違いなくバカボンのパパがいて、「これでいいのだ」と笑っていたのだと思います。





