新しいラプソディー 脳の「迷信」をステップで踏み越える、女性たちの生命(いのち)の賛歌

脳化社会に生きる

新しいラプソディー   脳の「偏見」をハックし、身体の「リズム」を肯定する

脳が作り出した「穢れ」というバグ

 今回取り上げるのは、比企大学三郎の女房へ送られた『大学三郎妻御返事(月水御書)』です。

 当時の宗教界(脳化されたシステム)は、女性の生理を「穢れ」という記号で分類し、修行や参拝から排除していました。
 これは生身の身体に起こる自然な現象に対し、**脳が勝手に「不適切なもの」とラベルを貼った**、いわば情報のバグ** です。
 比企女房が **「例のこと
(生理)」** と遠回しに不安を吐露したのに対し、**日蓮は「月水」という言葉を堂々と六回も使い、迷信を真っ向から否定** しました。

「昨日までの君」を忘れて、自然のダンスへ

 陽水の **『新しいラプソディー』** のリズムに乗って、**日蓮は彼女を縛り付けていた古いルールを鮮やかに塗り替え** ていきます。

「昨日までの君を わすれてしまうくらい」(『新しいラプソディー』より)

 日蓮は**「月が満ち欠けし、花が咲き、果実が実ることに穢れなどない。それは宇宙の摂理(ダルマ)だ」** と説きました。
脳が作った「こうあるべき」という整合性に縛られ、自分の身体を恥じていた昨日までの自分。

日蓮の咆哮は、そんな彼女を**「不自然な檻」から連れ出し、生命そのものが奏でる自由なラプソディー(狂詩曲)へと誘った** のです。

養老視点:意識のドグマから「身体の自然」へのログオン

 養老先生は、脳(意識)は固定されたルールを好むが、自然(身体)は常に流動していると指摘します。
「穢れ」とは、変化し続ける生命を脳が無理やり固定しようとした時に生じる歪みです。
日蓮が説いたのは、**自分の身体的状況に「参りました(南無)」と降参し、ありのままのリズムを受け入れること。**
 それは、社会が押し付ける「清浄」という幻想からログアウトし、自分という「自然」を取り戻すための、熱いメッセージなのです。

新しいラプソディー 「日本第一」の称号は、身体が刻んだステップへの賛辞

脳内の「不可能」を、身体の「一歩」が踏み越える

 次にご紹介するのは、「日妙聖人」という、女性としては破格の称号を日蓮から贈られた一人の女性の物語です。

 文永九年、日蓮が佐渡へ流され、教団が存亡の機にあった時、彼女は幼い娘の手を引き、鎌倉から信濃の山を越え、荒波を渡って佐渡へと辿り着きました。
 現代の「脳化社会」に生きる私たちは、何かを始める前に「リスク」や「コスト」を脳内で計算し、動けない理由(バグ)を探してしまいがちです。
 
**しかし彼女は、そんな脳内のシミュレーションを、ただ「歩く」という身体的事実で塗り替えました。**

「昨日までの君」を脱ぎ捨てる旅路

 陽水の **『新しいラプソディー』** の調べは、彼女の決死の旅路に重なります。

「昨日までの君を わすれてしまうくらい」

「どこへゆくのか きめてないけど」

 もちろん、彼女には「佐渡」という目的地がありました。
しかし、山賊や海賊が横行し、幕府の監視の目が光る中での旅は、昨日までの「弱くか弱い女性」という自己イメージを捨て去らなければ、一歩も進めないものでした。

 日蓮が彼女を「日本第一」と讃えたのは、彼女が経本を暗記していたからではありません。
脳内の恐怖を、生命の躍動(ラプソディー)へと転換させた、その **「身体の移動」** という事実に魂を揺さぶられたからです。

養老視点:意識の「予測」を裏切る「自然(じねん)」の力

 養老先生は、「意識(脳)は常に結果を予測するが、自然(身体)はプロセスそのものである」と説きます。

 「女の身で、幼児を連れて佐渡まで行けるはずがない」というのは、当時の社会という「巨大な脳」が下した予測でした。
 しかし、**彼女の足裏が地面を踏みしめ、喉を焼く乾きを感じながら一歩ずつ進んだ事実は、脳の予測を超えた「自然(じねん)のゆらぎ」**そのものです。

 日蓮は、帰りの旅費に困っていた彼女のために、自ら借金をしてまで送り出しました。
これは、ロゴス(論理)の世界で生きる宗教者が、パトス(情熱)と身体でぶつかってきた一人の女性に対し、全存在をかけて応えた**「共鳴のラプソディー」**なのです。

 比企女房が「身体の内側の自由」を勝ち取ったのに対し、日妙聖人は「身体の外側の自由(移動)」を証明しました。
 この二つが合わさることで、「脳化社会」が女性に押し付けてきたあらゆる「枠」が、陽水の軽快なリズムとともに瓦解していくような爽快感があります。

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