視覚的な感性が極めて鋭い**「目の作家」** 宮沢賢治
日持上人の椴法華村を訪れたことでも知られる宮沢賢治を取り上げました。
誰も知らない宮沢賢治の正体:「脳化」を拒否した「目の作家」
法華経に殺されかけて脱出を図る
宮沢賢治。誰もが知る「雨ニモマケズ」の聖人であり、「銀河鉄道の夜」など、星と童話を愛したロマンチスト。
しかし、養老孟司先生の視点を通すと、その美しいメッキは完全に剥がれ落ちます。
実は彼、**法華経という「頭の中の巨大なエンタメ(脳化)」に殺されかけ、最後の最後にそこから脱走を図った、泥まみれの「野生児」**だったのです。
養老孟司が注目した「目の作家」

養老先生が注目したのは、彼の頭の中の「思想」ではありません。
むしろ、「石を拾い、土をいじり、あちこち歩き回る」という、体を使った活動のほうなんです。
養老先生は賢治のことを、とにかく見る力がずば抜けている**「目の作家」**だと呼んでいます。
私たちは自然を見ても、つい「これは〇〇だ」と頭で意味付けしてしまいますよね。
でも賢治は、そんな風に理屈でコーティングされる前の**「生の自然」や「体の感覚」**に、真正面から向き合った珍しい作家でした。
だからこそ養老先生は、今の時代に賢治の存在を引っ張り出してきたのです。
この視点は、頭ばかりを使うようになってしまった現代の我々「脳化社会」への、とても鋭いメッセージに繋がっていきます。
賢治は、『春と修羅』の序文にある「わたくしといふ現象は…」という有名な言葉もそうです。
**「絶対に変わらない『自分』なんてものはないんだ」**と、自分自身すらも自然の中で移り変わる命の一部として、とても冷静に見つめていたことがわかります。
手帳に隠された「脳と身体」の決戦 『雨ニモマケズ』の真実

宮沢賢治の没後に発見された手帳の片隅に書き残した『雨ニモマケズ』。
私たちはこれを、清廉潔白な聖人君子を目指す「理想の道徳」として教わってきました。
しかし、養老先生が提唱する「脳化社会」——すべてを理屈や意味、予測可能なシステムで支配しようとする社会——の視点からこの詩を読み直すと、全く異なる壮絶な風景が浮かび上がります。
この詩は、決して発表を前提とした「作品」ではありませんでした。
そこには、**脳が描き出した「美しすぎる理想」と、結核に侵され死にゆく「制御不能な身体(自然)」**との、逃げ場のない葛藤が刻印されているのです。
脳化の極致としての「サウイフモノニナリタイ」
養老先生は、意識(脳)は常に「ああしたい、こうなりたい」という目的を掲げ、身体をそのコントロール下に置こうとすると指摘します。
脳の設計図

「慾ハナク」「決シテ瞋ラズ」「ジブンヲカンジョウニ入レズニ」といった一連の記述は、脳が身体に課した究極の「規律」です。
個の消去 身体性の消去というトンデモナイ考え
感情すらもコントロールし、自分を数に入れないという状態は、個体としての身体性を消去し、一種の「記号」や「システムの一部」になろうとする脳の暴走とも言えます。
しかし、**賢治がこれを書いた時、彼は実際には死の縁に**ありました。
「負ケヌ丈夫ナカラダ」を望めば望むほど、生身の自然である身体は衰弱していく。
この意識が作る「理想の自己」と、刻一刻と死へ向かう「生身の自然」との乖離こそが、この詩に漂う痛々しさの正体です。
大乗仏教学的「美談」という脳の罠と賢治のリアル
ここで私たちは、現代の仏教解釈者や学者たちが陥りがちな「罠」について触れねばなりません。
仏教学者らの解釈は、『雨ニモマケズ』の結びに登場する「デクノボー」を法華経の「常不軽菩薩」と同一視し、これを素晴らしい思想の結実として美しくパッケージ化して語っています。
文上読みの限界 所詮は脳化の学者
テキストの字面だけを追い、整合性を尊ぶ「思想」は、しばしば「ワカンナイ」という生身の混乱を安全な言葉で上書きしてしまいます。
脳に騙され続けた賢治 法華経こそ脳化の極致

賢治は、法華経という壮大な理論体系(脳化の極致)を信じようとして、己の身体がついていかない絶望を味わいました。
あのメモは、美談への到達ではなく、**脳が作る「理想の檻」に騙され続けた自分への決別だった**のではないか。そう読み解く方が、遥かに人間的で切実です。

ここで三毛猫師匠が、呆れたようにあくびをしながら言いました。
「賢治さん、真面目すぎるんニャ。
お経(脳の理屈)なんかで腹は膨れないし、病気も治らない。
そんなの、アタチたち猫なら最初から『ワカンナイ』って言って昼寝してるニャ(笑)。
結局、彼が手帳に書いた『雨ニモマケズ』は、立派な道徳なんかじゃないニャ。
重たいお経を全部捨てて、『ただの身体に戻りたい!』っていう、決死のSOSだったんだろうニャ?」
井上陽水による「公開処刑」と「ワカンナイ」の救済
この賢治の「祈り」を、現代の視点から鮮やかに解体したのが、井上陽水さんの楽曲『ワカンナイ』です。
陽水さんは、賢治がお蔵入りさせたはずの「脳の理想」を引っ張り出し、現代の「電波」や「パンとミルク」という即物的な身体感覚で揺さぶります。
意味の拒絶
「未来の事ならなにも 心配するなと言えそうかい?」という問い。
これは、脳が作り出した「夢」や「希望」という綺麗な言葉だけでは、目の前の「病気」や「死」という抗えない自然には太刀打ちできないという指摘です。
「ワカンナイ」=脳の降伏

養老先生は「わかる」とは、脳が情報を整理しシステムに組み込むことだと言います。
つまり、「ワカンナイ」=脳の降伏とは、日蓮の提唱した「南無(参りました)+音」になりますね。
陽水さんが繰り返す「ワカンナイ」は、脳による意味付けの放棄であり、思考停止の豊かさの肯定です。
デクノボウの変質
現代社会(脳化社会)では、隠遁生活すら「スタイル(記号)」として消費されます。
陽水さんは、システムの外側にいるはずの「デクノボウ」にすら脳化の影が忍び寄る滑稽さを揶揄しています。
釈尊・日蓮・養老孟司を繋ぐ「一本の線」
不思議なことに、この**「理屈(脳)を極めた先で、理屈を捨てる」という円環構造**は、釈尊から日蓮、そして養老先生へと一本の線で繋がっています。
日蓮の「詮なし」
膨大な著作を残した日蓮が、晩年に「詮ずる所、理屈だ(詮なし)」と見切った地点。
賢治の「ログアウト」
賢治は、法華経という最上級の理屈の檻から脱出し、ただ雨に濡れ、風に吹かれる**「非意味の自然(デクノボー)」へ**と還ろうとしました。
養老思想の「なるようにしかならん」
脳の悪あがき(予測と制御)を止め、自分の身体を「自然」として取り戻すこと。
これこそが脳化社会からの唯一の脱出口です。
結び 究極の『ワカンナイ』

身体の革命へ 未来を心配する脳の「悪あがき」を止める
宮沢賢治は法華経を完成させたのではなく、**法華経という「脳の牢獄」から、デクノボーという「身体の野原」へ脱走した**のです。
井上陽水さんの「ワカンナイ」という冷や水は、賢治を貶めるためではなく、「こんな立派な記号にならなくていいんだよ」という救済のメッセージです。
養老先生が仰るように、脳はすぐに「意味」を欲しがりますが、私たちは時折「ワカンナイ!」と叫んで、脳の独裁からログアウトする必要があります。
未来を心配する脳の「悪あがき」を止めた瞬間に、賢治が最後に辿り着こうとした、あの静かなデクノボーの境地が、今の私たちにも少しだけ見えてくるのかもしれません。
「バチ当たり」から「究極の共鳴」へ

養老思想を知る前(脳化の檻の中)の自分
「雨ニモマケズ」は、誰もが疑わない神聖な道徳(絶対的な情報)でした。
だからこそ、それを「ワカンナイ」と軽くあしらう陽水は、権威に泥を塗る「バチ当たりな不届き者」に見えます。
これは、教義やシステムを頑なに守ろうとする「脳化社会の優等生」の視点です。
養老思想を知った後(身体性への目覚め)の自分
「雨ニモマケズ」が、教義の檻から抜け出そうとした賢治の「泥臭い身体のSOS」だと気づきます。
すると、陽水の「ワカンナイ」は単なる揶揄ではなく、賢治を「道徳の神様」という窮屈な座から解放し、**「理屈じゃなくて、身体でいいじゃないか」と肩を叩く「最高の理解者(共鳴者)の言葉」**へと劇的に反転します。
私も養老思想を学ぶまでは、陽水のこの「ワカンナイ」いう歌詞は、賢治の「雨ニモマケズ」を揶揄するバチ当たりな曲だな、と思っていたのです(笑)
補遺:「ワカンナイ」の誕生秘話♪
電話で聞く
陽水さんは親交のあった作家の沢木耕太郎さんに電話をかけ、「あの詩、どういうんだっけ?」と尋ねたというエピソードが残っています。
電話の向こうで起きた「解体」と「再構築」
沢木さんの著書(『バーボン・ストリート』や『ラインダンス』)に記されたそのやり取りは、まさに「陽水による賢治の公開処刑」の序曲のようです。
ド忘れから始まった対話:
陽水さんが「雨ニモマケズ」を元に曲を作ろうとした際、先が思い出せなくなり沢木さんに電話をしました。
沢木さんが暗誦して聞かせると、陽水さんは電話口で「カヤブキ小屋ね……」「日照りに……涙か……」といちいち引っかかり、フレーズごとに反応を返したといいます。
「凄い詩だね」という逆説:
ひと通り聞き終えた陽水さんは、「驚いたね。まったく、凄い詩だね」と感嘆したそうです。
しかし、その「凄い」は単なる称賛ではなく、「(現代の感覚からすると)あまりにストイックすぎて、ワカンナイほど凄い」という、陽水流の皮肉と畏怖が混ざったものだったのでしょう。

養老先生的な「脳」のバグ
この電話のエピソードを養老先生的に見れば、**「意味の体系(賢治の詩)」を電話という「生身の声(身体的接触)」で受け取った瞬間、陽水さんの脳に強烈な違和感(バグ)が生じた**、と解釈できます。
脳の設計図 vs 声の響き:
**文字で読めば「立派な教訓」**として脳にスッと入る賢治の言葉も、**電話越しに声として聞くと、その「非現実さ」が浮き彫りに**なります。
断絶の自覚
「君の時代が今ではワカンナイ」という歌詞は、賢治が理想とした「無私」の世界が、もはや現代の「脳化されたシステム」の中では翻訳不可能な異物(ワカンナイもの)であることを、**陽水さんが身体的に確信した瞬間の産物**だと言えます。
賢治が**「身体的違和感」**からお蔵入りさせたメモを、陽水さんは電話一本で引っ張り出し、現代の冷たい電波に乗せて「こんなの、今の俺たちにはワカンナイよね?」と突き放してみせた。
この「恥をかかせる」ようなアプローチこそが、脳化社会に縛られた私たちを「あ、それでいいんだ」と解放する、最高に粋な救済ですね。




