里山の崩壊と精神科世界一の日本──「アロハ」と「虫の音」に学ぶ、脳化社会の解毒作法

脳化社会に生きる
  1. 里山の崩壊がもたらしたもの
    1. はじめに:言葉という「バカの壁」を越えて
  2. 第1章:脳化社会の病理──里山の崩壊と精神病床世界一のつながり
    1. コントロール出来るモノしか残らない社会は当たり前ではない
    2. 外なる自然の排除:里山の崩壊
    3. 曖昧を許さなくなった日本社会
    4. 「意味」と「効率」で里山が崩壊
    5. 内なる自然の病理:精神科病床世界一の日本
    6. 里山の崩壊は、内なる自然(精神・身体)を病ませた
  3. 第2章:『ポツンと一軒家』が映し出す、脳化の解毒作法
    1. 「解毒(デトックス)」を求めている
  4. 第3章:「自然(Nature)」という言葉を持たないハワイアンの衝撃
    1. ハワイには「自然」と言う言葉がない
    2. 境界線のない世界
    3. 「アロハ(ALOHA)」に秘められた、生々しい肉体(パトス)の契約
    4. 命の根本とは「呼吸(HA)」
    5. 身体性の確認
  5. 第4章:記号のテーマパークで満足する現代人の「認知の変質」
    1. 無菌室のなかのインスタントな記号に満足する現代人
    2. Aloha Morning Breeze ~アロハが薫る朝のそよ風~
    3. 日本人観光客がいなくなった
    4. ハワイとTDL、USJが等価値になる病理 脳化社会の末期症状
    5. 「日本人は身体の弱い人、不健康な人が多い」不健康な家畜
  6. 第5章:「アフプアア」──脳化のシステムを破る、身体的循環
    1. 自然の本来の流れに対する敬意がない日本人
    2. 「自然の循環というプロセス(流れ)」のハワイ人
    3. 諸法無我に生きるハワイの人々
  7. 第6章:日本人とハワイアンだけが持つ「虫の音の耳」
    1. かつての日本人にもあった「身体性の天地」
    2. 世界で二つの民族だけの「奇跡」
    3. わらべ歌や童謡が生まれた国だった
    4. 「わび・さび」という高度な身体的レシーバー
  8. 第7章:脳化社会の家畜となり、「わびさび」をドブに捨てた現代日本人
    1. 自業自得の日本人
  9. 結びにかえて:アロハという「呼吸」から、野生の脳を取り戻せ
    1. 生老病死
    2. 虫の音を聴く耳を持っていたかつての日本人
    3. たかが挨拶、されどアロハ
    4. あなたの脳への、最後のテスト
    5. 生きづらさの正体は、生命からのしっぺ返し

里山の崩壊がもたらしたもの

はじめに:言葉という「バカの壁」を越えて

 皆さん、少し想像してみてください。
もし私たちの辞書から「自然」という言葉が消えてしまったら、世界は一体どのように見えるでしょうか?

 現代に生きる私たちは、コンクリートのビル群を「都市」と呼び、緑豊かな山々や海を「自然」と呼びます。
頭の中でパキッと明確な境界線を引いて、自分たちは安全で快適な「文明」の側に住み、時々リフレッシュするために「自然」へと出かける。
金曜日の夜に都市を脱出し、週末だけキャンプ場という名の「管理された自然」を消費して、月曜日にはまた満員電車に揺られて都市のシステムへと戻っていく。
しかし、この「分ける」という行為そのものこそが、解剖学者・養老孟司先生の説く「脳化社会」の巨大な罠にほかなりません 。

 人間の脳(意識)は、意味を効率よく整理するために、世界を記号化し、都合よく切り分けようとします。
 その結果、私たちは自分自身の肉体もまた、割り切ることのできない「自然」の一部であるという、当たり前すぎて最も大切な感覚を忘れてしまいました。

 日本の里山が静かに崩壊していく風景と、人口当たりの精神科病床数が世界一という、我が国が抱える驚くべき現実
一見すると、環境問題と医療問題という全く無関係に思えるこの2つの現象は、実は「社会の脳化」という同じ根っこから生え出た、表裏一体の病理です。


 なぜ私たちは、テレビ番組『ポツンと一軒家』を観て、人里離れた大自然の中に孤立して暮らす人々の姿に、これほどまでに心を揺さぶられ、強烈な憧れを抱くのか。
なぜ私たちは、ハワイの圧倒的な太陽と風に触れた瞬間に、理屈抜きの幸福感に満たされるのか 。

 今回は、かつてハワイの先人たちが持っていた「天地アロハ」という境地 、彼らが実践していた「アフプアア」という循環システム 、そして私たち日本人とポリネシア人にだけ遺された「虫の音を聴く耳」を補助線に 、脳化社会に残された最後の聖域――私たちの「身体性」の回復について、深く、泥臭く、思索を進めていきましょう 。

第1章:脳化社会の病理──里山の崩壊と精神病床世界一のつながり

コントロール出来るモノしか残らない社会は当たり前ではない

 都市化が進むということは、単に高層ビルが増え、インフラが整備されるということだけを意味しません。
 それは、社会全体が「人間の脳が計量し、設計し、100%コントロールできるルール」だけで埋め尽くされていくプロセス、すなわち「社会の脳化」そのものです。

 人間の意識(脳)は、予測不可能で、割り切れないもの、すなわち「他者」を徹底的に嫌います。
脳にとって最も心地よいのは、スイッチを押せば思った通りの温度の風が吹き、記号を入力すれば一瞬で計算結果が返ってくるような、バグのない「無菌室」のような空間です。

この過剰に進行した脳化の暴力が、外側に向かった結果が「里山の崩壊」であり、内側に向かった結果が「精神病床世界一」という歪みなのです。

外なる自然の排除:里山の崩壊

 かつて日本の国土に広がっていた「里山」とは、原生の鬱蒼とした自然(人間にとっての絶対的な他者)と、人間の利便性(都市・文明)とが、互いに折り合いをつけながら共生する、グラデーションの空間でした。
 そこは、人間が手を入れ続けることで維持される、不完全で、しかし豊かな汽水域のような場所でし
た。

曖昧を許さなくなった日本社会

 しかし、脳化社会はこのような「管理しきれない曖昧な空間」を許容しません。
脳の論理は、世界を「1か0か」「役立つか役立たないか」で二分しようとします。
 その結果、すべてをコンクリートで覆い尽くして100%コントロール可能な「都市」にするか、あるいは経済合理性がないとして完全に「見捨てる(過疎化・放置)」かという、極端な二者択一を迫ることになりました。

「意味」と「効率」で里山が崩壊

 手入れを失った里山は竹林に侵食され、害獣が人里に溢れ出し、文字通り崩壊していきました。
脳が「意味と効率」だけで土地を切り刻んだ結果、私たちは自然との対話の窓口を失ってしまったのです。

内なる自然の病理:精神科病床世界一の日本

 そして恐ろしいことに、完全に脳化された都市空間では、そこに住む人間自身もまた「予測可能で、効率的で、バグのない存在」であることを強要されます。
 現代のビジネスパーソンは、KPI(重要業績評価指標)やタイパ(タイムパフォーマンス)といったちっぽけな数値で自らの価値を測られ、SNSのタイムラインから流れてくる膨大な記号(情報)を1.5倍速で消費することを求められます。


 しかし、人間は本来、頭脳だけでできた存在ではありません。
私たちは、感情を揺さぶり、体調を崩し、老いて病んで死んでいく、コントロールしきれない「生身の身体(パトス)」を持った自然物です。
 一分の隙もない合理的な脳化システムに、この割り切れない身体を無理やり適応させようとすれば、どこかで決定的な歪みが生じるのは当然の帰結でしょう。

里山の崩壊は、内なる自然(精神・身体)を病ませた

 我が国が抱える人口当たりの精神病床数世界一という現実は、システムから「効率の悪いノイズ」として弾き出された人々の悲鳴であり、過剰に暴走する脳(意識)の命令に対して、人間の身体が限界を迎えて引き起こした拒絶反応にほかなりません。

 外なる自然(里山)を排除して脳化した都市が、めぐりめぐって人間の内なる自然(精神・身体)をも病ませ、世界一の病床数を必要とするディストピアを作り上げてしまったのです。

第2章:『ポツンと一軒家』が映し出す、脳化の解毒作法

「解毒(デトックス)」を求めている

 私たちが毎週のようにテレビ番組『ポツンと一軒家』を観て、深い息を吐き出すように見入ってしまうのはなぜでしょうか。
それは、単なる「のどかな田舎暮らしへのノスタルジー」などという薄っぺらい感情ではありません。


 文明の最先端、脳化社会の極みにある都市で摩痺させられた私たちの「身体性」と「他者(自然)との対話」が、あの画面の向こうに生きる人々のなかに、瑞々しく、生々しく息づいているのを目撃し、私たちの遺伝子が本能的に「解毒(デトックス)」を求めているからです。

彼らのポツンとした暮らしには、脳化社会の檻を破る3つの決定的な作法が隠されています。

作法①:「思い通りにならない他者」との泥臭い共生

 ポツンと一軒家での暮らしは、自然という「絶対に人間の脳の計算通りにはいかない巨大な他者」と向き合う日々です。
冬の豪雪、夏の台風、容赦ない害獣の襲撃、突発的な土砂崩れ。
そこには、都市のマンションのように「ボタン一つで解決する快適さ」は存在しません。
 しかし、そこに住む高齢者のみなさんたちは、自然をコンクリートで征服しようとするのではなく、「まぁ、自然が相手だからしょうがない」「お天道様には勝てん」と笑いながら受け入れます。
彼らは脳の計画に世界を合わせるのではなく、自らの身体の側を、自然のサイクルや不自由さに合わせて最適化(チューニング)していくのです。

作法②:「意味」から解放された、身体の即自的な歓び

 都市の脳化社会を支配するのは、「何のためにそれをするのか」「コストパフォーマンスは良いのか」という効率と意味の論理(ロゴス)です。
役に立たない行為は無駄とされ、すべてのアクションに理由が求められます。

 一方で、一軒家の住人たちが日々行っている営みを見てみてください。
薪を割り、裏山から水を引き、畑を耕し、壊れた屋根を自分で修理する。
 これらは、脳がこねくり回した「人生の意味」や「自己実現」といった抽象的な概念の先にある、生きるための直接的な身体運動です。
 汗をかき、泥にまみれ、手を動かすその瞬間自体に、絶対的な充足感(=身体の歓び)が宿っています。
彼らは「生きる意味」を探す必要がありません。
生きる行為そのものが、身体を通じてダイレクトに完結しているからです。

作法③:「私」という主体の輪郭を、あえて曖昧にすること

 現代社会は「自分らしさ」や「自己責任」といった、個人の意識を過剰に肥大化させる言葉で私たちを縛りつけます。
これこそが脳が作り出した「主体の檻」です。


 しかし、山奥でポツンと暮らす人々からは、そうした自意識の過剰な力みが感じられません。
彼らは、自分がこの壮大な山の一部として生き、自然の恵みによって「生かされている」という感覚を自然に持っています。
 「私」という主体の輪郭をあえて曖昧にし、自然の流れに身を委ねること。
それは、肥大化した脳(自己意識)の暴走を止め、精神の平穏を保つための、最も強力な解毒剤となるのです。

第3章:「自然(Nature)」という言葉を持たないハワイアンの衝撃

ハワイには「自然」と言う言葉がない

 ここで一度、カメラのレンズを日本の里山から、太平洋の真ん中に浮かぶ楽園、ハワイへと大きく切り替えてみましょう。
「ハワイこそ、青い海と豊かな緑に囲まれた大自然(ネイチャー)の楽園ではないか」 ──多くの現代人はそう考えます。
 しかし、これこそがまさに、私たちが「脳化の罠」にどっぷりと浸かっている証拠なのです。

境界線のない世界

驚くべき決定的な事実があります。
かつての古代ハワイ語には、現代の私たちが使うような意味での「自然(Nature)」という独立した単語が存在しませんでした 。

 前述の通り、「自然」という言葉をわざわざ作って使うということは、人間の頭の中(意識)において、「人間」と「自然」を完全に切り離し、人間を一段高い安全な場所に置いた上で、外側にある景色を客観的に観察・コントロールしようとする脳の働きそのものです。
 西洋医学が人間の身体をパーツごとに切り分けてモノとして扱うように、脳化社会は世界を記号(言葉やデータ)に切り分けて管理しようとします 。

 しかし、古代ハワイアンの認知構造は、それとは全く異なっていました 。
彼らにとって、自分を取り囲む島、荒れ狂う海、吹き抜ける風、天から降り注ぐ雨、そして地上の植物や動物たちは、自分たちの外側にある「環境」などではなかったのです。
 それらはすべて、「自分自身の肉体の延長であり、同じ血を分けた家族(オハナ)」そのものでした。
人間と自然の間に、脳が引いた境界線(バカの壁)が存在しない。
 最初から完全に一体化して生きているからこそ、彼らには世界を客観視するための「自然」という言葉(記号)が必要なかったのです。

「アロハ(ALOHA)」に秘められた、生々しい肉体(パトス)の契約

 現代において、観光地のお気楽な挨拶や、商業的なキャッチコピーとして消費されている「アロハ」という言葉。
 この言葉もまた、現代の脳化社会の文字コードによって、その強烈な「身体性」を完全に去文化(去勢)されてしまっています 。

 私たちはアロハを、脳内だけで処理する「愛」や「平和」「親切」といった、お上品で抽象的な概念(ロゴス)だと思わされています。
 しかし、その語源を解き明かすと、そこには驚くほど生々しい肉体の実践、剥き出しの生命のやり取りが見えてきます 。

  • 「ALA(アラ)」:目の前に現れる、覚醒する、共に存在する。
  • 「ALO(アロ)」:〜の前に、顔を合わせる、分かち合う。
  • 「OLO(オロ)」:響き合う、共鳴する。
  • 「HA(ハ)」:神聖な息吹、呼吸。

命の根本とは「呼吸(HA)」

 古代ハワイアンにとって、命の根本とは「呼吸(HA)」そのものでした 。
彼らが「アロハ」の挨拶を交わすとき、それは現代の私たちのように、一定の距離を保ってお辞儀をしたり、手を振ったりするような非接触の行為ではありませんでした。
 彼らは文字通り、互いの顔を極限まで近づけ、鼻と鼻、額と額を突き合わせるようにして、「お互いの息(空気という生々しい物質)を物理的に交換し、共有する」という儀式を行っていたのです 。
これこそが、生身の肉体を張った「命の契約」の身体的ダイナミズムです。
猫が鼻を付け合う行為に似てませんか。

身体性の確認

 頭の中の理屈や、契約書という書類(脳化システム)で繋がるのではない。
「お前が今、肺の奥から吐き出した息を、私の肉体が吸い込む。私の身体を通り抜けた息吹を、お前の肉体が受け止める」
 この、お互いにコントロールできない生身の物質の交換、リアルな身体の摩擦の中にしか、本当の信頼も愛も存在しないということを、彼らは身体感覚として知っていたのです。

第4章:記号のテーマパークで満足する現代人の「認知の変質」

 このアロハの精神に照らし合わせたとき、現代人のコミュニケーションやライフスタイルは、一体どのように映るでしょうか。
それは、アロハの対極にある「死んだ脳の営み」にほかなりません 。

無菌室のなかのインスタントな記号に満足する現代人

 現代人は、タイパや効率ばかりを追い求め、スマホの画面越しに文字(記号)だけで繋がり、SNSの返信やAIが出した答えを、その真偽を身体で確認することもなく鵜呑みにしています。
 私たちは、「HA(息吹)」を共有するリアルな身体の摩擦や不自由さを恐れ、人工的に作られた無菌室のような脳化の檻の中で、インスタントな記号のやり取りだけで満足しているのです 。

Aloha Morning Breeze ~アロハが薫る朝のそよ風~

 かつてハワイの朝を迎えたとき、私は理屈抜きで全身に「幸せ」が満ち溢れるのを体験しました。
ひんやりとした朝の空気、すれ違う誰とでも気軽に挨拶を交わす心地よさ、人々の弾けるような笑顔、圧倒的なエネルギーを持つ太陽光線、どこからともなく風に乗って聞こえてくるハワイアンミュージック。
そして、様々な人種が混ざり合いながらも調和して存在する、その空間のすべて―― 。

 ハワイアンは、この五感で受け止める世界のすべて、コントロールできない豊かさのすべてを、まさに「アロハ」と呼んでいるのです。

日本人観光客がいなくなった

 しかし今、このアロハの天地を訪れる日本人が激減しています。
その背景には、日本が「貧しくなった」という経済的な事実も確かにあるでしょう。
しかし、もう一つの本質的な理由は、現代人の脳化がもたらした、背筋が凍るような「驚くべき認知の変質(バカの壁)」にあります。

ハワイとTDL、USJが等価値になる病理 脳化社会の末期症状

 多くの現代日本人が、悪びれもせずにこう口にします。
「日本にはディズニーランドやユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)があるから、わざわざ高い金を払ってまでハワイに行く必要なんてない」と。

これこそが、養老先生の言う「脳化社会の末期症状」の最たるものです。

 彼らにとって、五感を総動員して対峙すべき、本物のハワイの風や太陽、人間の体温や呼吸(=人間の思い通りにならない本物の自然)も、電気とコンクリートで作られた計算通りのアトラクション(=脳が作った記号のレプリカ、コピー)も、まったく「等価値」になってしまっているのです。
 脳内だけで「行った気」「満足した気」になり、手抜きをして安価な人工物で済ませようとする。
もはや、本物の「生(身体性)」を求める気力そのものが退化しているのです。


 かつて私がハワイに住んでいた頃、現地の人々に「日本人のイメージ」を尋ねたことがあります。
そのとき、彼らから返ってきたのは、私たちの核心を突く驚くべき答えでした。

「日本人は身体の弱い人、不健康な人が多い」不健康な家畜

 頭(脳)の中の効率やデータ、利益ばかりを追い求め、人工の無菌室に閉じこもって肉体や感覚を働かせようとしない現代日本人。
 その歪んだ生き方は、アロハの天地を五安全身で生きる人々から見れば、一目で「生命力が衰退した、不健康な家畜」だと見抜かれていたのです。

第5章:「アフプアア」──脳化のシステムを破る、身体的循環

 このハワイアンの健やかな生命力は、彼らがかつて持っていた社会・経済システムである「アフプアア(Ahupua’a)」という土地管理制度にも見事に現れていました 。

自然の本来の流れに対する敬意がない日本人

 現代日本の脳化社会は、土地を「ここからここは私の所有地、いくらの価値がある不動産データだ」として、地図上に勝手に引いた線(記号)で切り刻みます。
そこには、自然の本来の流れに対する敬意はありません。

「自然の循環というプロセス(流れ)」のハワイ人

 しかし、ハワイアンの考え方は全く違いました。
彼らは島を、「山頂から海岸線、そしてサンゴ礁にいたるまでの、一つの水の流れる循環(谷)」ごとに区切り、それを一つの共同体(アフプアア)として共有したのです 。
 山で雨が降り、霧が森を育て、その豊かな水が川となって麓のタロイモ畑を潤し、やがて海に流れ込んでサンゴ礁の魚たちを育てる。
 この「自然の循環というプロセス(流れ)」そのものに、人間の身体の営み、労働、経済を完全に同化させるシステムです。


 ここには、土地を切り売りして所有するという「脳内の傲慢な計算」は一切ありません。
ただ、自然というコントロールできない巨大な流れに、人間の肉体を最適化させていくという、圧倒的な「事(現実)」の顕現があるだけです。

諸法無我に生きるハワイの人々

 これこそ、日蓮が説いた「理屈から身体性へ」の転換であり、釈尊の言う「諸法無我(すべては独立して存在するのではなく、繋がりの中で流動している)」という宇宙の真理の、ハワイにおける具体的な体現にほかなりません。
彼らは頭の哲学ではなく、日々の労働の身体性によって、宇宙の真理を生きていたのです。

第6章:日本人とハワイアンだけが持つ「虫の音の耳」

かつての日本人にもあった「身体性の天地」

 ハワイアンが受け継いできたこの「身体性の天地」は、実は、遠い世界の他人事ではありません。
かつて私たち日本人もまた、全く同じように生きていた世界でした。

 その最大の揺るぎない証拠が、今も私たちの「耳」、すなわち脳の処理システムの中に遺されています。

世界で二つの民族だけの「奇跡」

 昭和の時代、認知科学・脳科学の世界に激震を与えた角田忠信博士の研究(『日本人の脳』)によれば、世界中の多くの民族の中で、「虫の音(鈴虫やコオロギの鳴き声)」を言語と同じ『左脳(論理脳)』で処理し、そこに「声」や「意味(心)」を聴き取るのは、世界中で日本人と、ポリネシア圏(ハワイなど)の人たちだけなのです。

 西洋人を含む他国の人々にとって、虫の音や風の音、川のせせらぎといった音は、すべて右脳で処理される「ただの雑音(環境ノイズ・機械の作動音と同じ)」に過ぎません。
彼らにとって、虫の音は集中を妨げるためにシャットアウトすべき背景音(ノイズ)なのです。

わらべ歌や童謡が生まれた国だった

 しかし、かつての日本人は違いました。
秋の夜長に鳴く虫の音を「あぁ、美しく鳴いているな」「生命が震えているな」と、まるで人間の言葉を聴くかのように、左脳のど真ん中でその「心」を聴き取ってきたのです 。
 だからこそ、そこから無数のわらべ歌や童謡が醸し出され、母から子へ、世代を超えて「いのちの響き」としての心が語り継がれてきました。

「わび・さび」という高度な身体的レシーバー

 これは、ハワイアンが風のそよぎや波の音に神々(クプナ)の声を聴き、それを「フラ(ダンス)」という全身の身体表現や歌(メレ)に変えて語り継いできたことと、完全に同一の精神構造です 。
 自然を「客観的なモノ(排除すべきノイズ)」として遠ざけるのではなく、自分の左脳(言語・意識の領域)のど真ん中に迎え入れ、自然とダイレクトに会話する 。

 これこそが、かつての日本人が持っていた「わびさび(不完全な自然のなかに宇宙の広がりを観る)」の心の本質であり、私たちの先祖が持っていた、極めて高度な身体的レシーバー(受信機)としての能力だったのです。

第7章:脳化社会の家畜となり、「わびさび」をドブに捨てた現代日本人

しかし、今の現代日本人はどうでしょうか 。
 明治以降の過剰な西洋化(脳化)、あるいは近年のスマートフォンやSNSの爆発的な蔓延によって、私たちはこの奇跡的な「耳」と「タフな身体性」を、自ら進んでドブに投げ捨ててしまいました。
 現代人は、少しでも予測がつかないもの、コントロールできない不便なもの(=自然・パドス)を徹底的に嫌悪します。

  • 部屋に虫が1匹出ただけで、生命の危機であるかのように大騒ぎして化学物質の殺虫剤を撒き散らす 。
  • 季節の移り変わり(暑さ寒さ)という身体的刺激を、エアコンのスイッチ一つで完全にシャットアウトし、年中一定の脳内快適空間(無菌室)に置き換える。
  • 人間関係のわずらわしさや、他人の心の複雑さ(割り切れなさ)に耐えられなくなり、SNSのヘッドラインを倍速でスクロールし、AIが出したインスタントな答えをただ鵜呑みにする。

 もはや、虫の音に生命の震えを感じる「わび・さびの心」など、完全に退化してしまっています。
自然の声を聴くための精緻なセンサーを失い、ディズニーやUSJの人工的な記号に満足し、頭の中のちっぽけな数値(効率、タイパ、利益、データ)だけで世界を測ろうとする現代の日本人は、養老先生の言う「バカの壁」に自ら立てこもり、システムに飼い慣らされた「脳化された家畜」の最先端を全力で走っているのです。

自業自得の日本人

 私たちが抱える「生きづらさ」や「精神病床世界一」という現実は、この身体性の完全なる放棄に対する、生命からの手痛いしっぺ返しなのです。

結びにかえて:アロハという「呼吸」から、野生の脳を取り戻せ

生老病死

 私たちは、どんなに社会がシステム化され、都市がコンクリートで固められ、AIが進化しようとも、最後は「死ぬべき肉体を持った生き物(自然)」です。
 その絶対的な現実から逃れることは、釈尊の言う「生老病死」の苦しみから目を背ける、脳の哀れな目眩まし(現実逃避)に過ぎません。

虫の音を聴く耳を持っていたかつての日本人

 ハワイアンが受け継いできた「アロハ」の精神、そしてかつての日本人が持っていた「虫の音を聴く耳」は、脳化の檻の中でぬくぬくと眠る私たちに、強烈な冷水を浴びせます。
「お前のちっぽけな頭(脳化社会)の計算だけで世界を分かった気になるな。
ディズニーの偽物の壁を出て、身体を開き、世界の生の息吹(ノイズ)を、ありのままに肉体で受け止めろ」
 

たかが挨拶、されどアロハ

たかが挨拶、されどアロハです。
文字データだけを追うスマホ脳を一度リセットし、目の前にある「思い通りにならない現実(自然)」の前に、静かに身を置いてみませんか。

あなたの脳への、最後のテスト

 普段、スマホのヘッドライン(見出し)をただ流し読みすることに慣れているみなさんは、今、私のこの長いブログ記事に嫌気がさして、「早く結論を出せ」「もっと短くまとめろ」と、スクロールを急いでいたのではないでしょうか 。
 それこそが、脳化社会に完全に調教されたあなたの脳が発している、「手抜き(認知の退化)」のサインです 。

 たまには、途中で投げ出さずに、この「長い文章」をじっくりと、息を整えながら読んでみてください(笑)
 そして、このブログに挿入しているイメージ画像を、スクロールの手を止めて、じっと10秒間、頭の批評ではなく「身体の感覚」で観てみてください。
細切れのカット割りとインスタントな情報に慣れたあなたの脳が、静かに、しかし激しく抵抗を始めるはずです 。
その心地よい抵抗(不自由さ)を感じること。
それこそが、システムに飼い慣らされ、他人の意見やAIの答えを鵜呑みにするだけの脳を、自分の頭に騙されない「野生の脳」へと引き戻す、最も贅沢な試みです。

そしてそれこそが、ハワイアンの「アロハ」や釈尊の「無我」や「諸行無常」、日蓮の「身体性の唱題」、そして養老先生の説く「身体性の復権」への、確かな第一歩なのです。

生きづらさの正体は、生命からのしっぺ返し

 現代の日本人は、養老先生の言う「バカの壁」に自ら立てこもり、システムに飼い慣らされた「脳化された家畜」の最先端を全力で走っているのです。
 私たちが抱える「生きづらさ」や「精神病床世界一」という現実(ママ)は、この身体性の完全なる放棄に対する、生命からの手痛いしっぺ返しなのです。

――人間は、仕方がないから生きているのです。

 昨日もたまたま生きていたから、その続きで行きがかり上、今日もなんとなく生きている。
明日も目覚めたから、仕方なく生きる。
それ以上の高尚な理由や意味なんて、本来は1ミリも必要ありません。
動物も昆虫も植物も、みんなただの「行きがかり」でこの地上に存在しています。

「なぜ、現代社会は息苦しいのか」をテーマに書いてまいりました。
これが養老孟司先生からの最後の宿題への最終回答になります。

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