脳の暴走を止める「ブッダの智慧」と「身体の免疫」
「最近、どうも息苦しい」
「街にもネットにも変な人が多い」
「絶えず喋ってる人。叫ぶ様に歌いながら通り過ぎる若者」
「なんかイライラする」
「スマホを見ているだけで一日が終わり、何も残っていない気がする」
もしあなたがそう感じているなら、それはあなた個人のメンタルの弱さではなく、人類が20万年かけて積み上げてきた「脳化」という名の進化の行き止まりに直面している証拠かもしれない。
これまで、拙ブログでは、養老思想からブッダの教えを読み解いてきたが、今回、そのまとめを書くことにした。
脳化社会(都市化)
解剖学者・養老先生が提唱する「脳化社会(都市化)」という概念を軸に、仏教の智慧、そして現代人が取り戻すべき「身体」の重要性について掘り下げたい。
脳化という病:解剖学者が視た「壁」

養老先生は、ご自身の思想『唯脳論』の中で、私たちが暮らす都市、法律、貨幣、これらすべては「人間の脳の構造が外側に投影されたもの」であると指摘している。
脳(意識)は、意味がわからないもの、予測できないものを嫌う。
一方、私たちの「身体」や「自然」は、予測不能で思い通りにならないノイズの塊です。
脳は、この不確実な自然を排除し、管理しやすい「意味と論理」だけの世界を作り上げてしまった。
それが現代社会という「壁」の中の世界になる。
この「脳による自然の徹底排除」こそが、私たちが感じる息苦しさの正体だとし、養老先生は「脳化社会」と名付けた。
つまり、我々は人工物の中だけで暮らし、さらにはネットいうバーチャルの世界が当たり前になった中で生活しているから、脳(意識)しか使っておらず、五感(身体)が麻痺し機能していないことすら気が付いていない。

人類20万年の暴走:貨幣と虚構の誕生
養老先生によると現代人たるホモ・サピエンスが登場して20万年という。
洞窟に住んでいた人類は道具を操り、言語も発する様になった。
そして、人類最大の「脳内虚構」の発明は「貨幣」となる。
人類は貨幣を誕生させてすぐにカネがモノを言う世の中にして今日に至る。
自然界には、同じ重さの石はあっても、本質的に「同じもの」は二つと存在しない。
しかし、脳が「これは100円の価値がある」と定義した瞬間、本来バラバラで多様な現実が、数字という単一の物差しに置き換えられてしまう。
この「生身の手応え」を「数字」に売り渡す暴走は、ネットやスマホの登場によって加速した。
このわずか30年で、私たちはついに、肉体を置き去りにしたままバーチャルな虚構の中だけで完結できる「脳化の極致」に到達してしまったことになる。
歴史のカウンター:釈尊から日蓮、そして養老孟司へ
この脳の暴走に対し、歴史上の先哲たちは常に「身体」からの回答を用意してきた。
釈尊(ブッダ)
2500年前、都市化と貨幣経済が始まったインドで、論理(脳)による執着を断ち切るために、人ではなく、ダルマ「法」(道理、たもつもの)を根本(依法不依人)にしろと遺言し、「感覚」という五感に立ち返る生き方を説いた。
釈尊が教えた「無常」を観ずる実践とは、脳に対して「世界は常に流動的であり、固定できるものなど何一つない」という現実を突きつけ続ける作業になる。
「私」という執着の解体
脳は「私」という変わらない実体があると思い込んでるが、解剖学的に見れば細胞も物質も常に入れ替わっている。つまり、「無我」(自分などない)
この「無我」の感覚を深めることが、最大の脳化(=自己愛)からの解放になる。
そして、その反対が”執着”になる。
釈尊は、最後の旅路の心境を「世界は美しいもので人間のいのちは甘美なものだ」と残している。
釈尊(ブッダ)の”慈悲”を、養老先生の視点から捉え直すと、それは単なる「優しさ」や「感情」ではなく、「脳の暴走を止め、生命のシステムとしての整合性を取り戻すこと」として解釈できる。
日蓮(鎌倉時代の僧)
日本においては、日蓮が登場し、複雑な教理(脳の産物)に埋没した当時の仏教を否定。
ただ「南無妙法蓮華経」と声を出すという、強烈な身体運動(唱題)を通じて、理屈を超えた生命の実感を呼び覚まそうとした。
日蓮が没した東京大田区にある池上本門寺には毎日たくさんの人が訪れ、唱題や境内散策をして帰られているのは日蓮の教えを実践している姿そのものだ。
養老孟司
そして現代に養老孟司という稀代の碩学が登場し人類に遺言たる宿題を残した。
バーチャルという脳化の末期症状に対し、現代のブッダたる養老先生は「解剖学」という、逃げようのない肉体という物証を突きつける。
「君たちの脳が何を言おうと、死体(物質としての身体)はここにある」という最後の警告だ。
80万年後の予感:『タイム・マシン』の世界はすぐそこに
H.G.ウェルズのSF小説『1960年タイム・マシン』には、80万年後の人類の姿が登場する。
地上の楽園で思考を放棄し、遊んで暮らす家畜のような「イーロイ」と、地下でシステムを管理し、彼らを食糧とする「モーロック」。
小説では遠い未来の話として描かれているが、この「思考停止」と「システム管理」への分断は、80万年後ではなく、映画から80年後つまり2040年頃の日本で現実のものとなるかもしれない。
AIやアルゴリズムに選択を委ね、バーチャルを現実だと思い込む私たちは、今まさに自ら進んで「家畜化」の檻に入ろうとしているのではないか。
ちなみに、既に、身体性を粗末にしたまま脳(意識)の中だけで過剰な暮らしをした成れの果ての人たちがいる。
名前こそ伏せるが、「システムへの過剰適応がもたらす『身体の喪失』の人々」として、我々は間近に目にしているのではないだろうか。
ためしに、ネットだけの生活をしていると必ず身体の感覚の麻痺が起こるはずで、脳も身体だから機能しなくなれば幽霊の様な魂の抜け殻の人間になる。
処方箋:アロハの心と「三毛猫師匠」
では、この「死の社会(脳化社会)」から、どうすれば抜け出せるのか?
そのヒントは、「脳が支配できない領域」に身を置くことだと先哲たちや養老先生は指摘する。
アロハ(ALOHA)の心
世界中が脳化社会となる中で、今も身体性に生きる人々がいるのがハワイ諸島を中心としたポリネシア圏だ。
ハワイに伝わる、生命が共鳴し合う感覚を彼らはアロハという。これは理屈ではなく、風や波、他者の生命とただ響き合うこと。
三毛猫師匠に学ぶ
養老先生も愛した猫との暮らし。猫は理屈が通じない。何を考えているかわからない「他者(自然)」と一緒に過ごすことは、脳の独裁を解く最高の治療薬になるという。
身近なことからはじめよう。”考えるな 感じろ”
目的のない散歩をする。その際には、足の裏が地面に触れているか確かめながら歩きなさい、と養老先生は指南。
庭いじりなど土に触れることや花鳥風月に目を向け感じる。
また、日蓮が提唱した唱題「南無妙法蓮華経」を声を出して少しの時間でも唱えることも、凝り固まった脳(意識)からの執着はがしに有効だという。
脳が「効率が悪い」と切り捨てるものの中にこそ、あなたが生きるための「免疫」が隠されている。
海や山の傍で暮らされている方には当たり前のことで、この記事を読まれると驚くかもしれない。
昔、ブルースリーの映画で名セリフ“考えるな 感じろ”がまさにこのことだが、当時は意味もわからず観ていたかも知れない。
養老先生が私たちに遺した宿題

それは、脳という檻を抜け出し、もう一度「生身の身体」を使いこなすこと。
ハワイの天地のような、大きな生命の循環に自分を戻してあげる時間を、今日から少しずつ作ってみませんか?
【後記:次の一歩】
まずはスマホを置き、5分間だけ「自分の呼吸」の音に耳を澄ませてみたらどうか。
それが、脳化社会へのささやかな、しかし確実な反逆の始まりだ。
私は都内の一角で暮らしている。確かに全てに便利だが、息苦しさは半端ない。
絶えず、大きな音や話し声が聞こえる。
車の騒音もある。
街を歩いても意味を持たせた植栽が少しあるが自然ではない。家庭菜園をやっていた頃が懐かしい。

私の保護猫との暮らしも14年になるが、最近ようやく養老先生のいう”猫は人生のものさし”という言葉を実感する様になった。
私の都合には合わないのだから未だ”イラっとする”ことも多い。
随分と時間がかかったが、意味を求めた暮らしの私を正気に戻してくれた愛猫に学ぶことばかりなので、私は名前以外に「三毛猫師匠」の称号を贈っている。




