盗まれた五感 世の中のやかましさ
騒音バカタレの存在
みなさんは最近、街を歩いていて「なんだか世の中の音が雑になったな」とか、「人間の立てる音に品がなくなっている気がする」と、言葉にならない居心地の悪さを感じたことはありませんか?
もしあなたがそんな違和感を抱いているなら、あなたの五感や身体のセンサーは、現代の忙しい社会の中でも、辛うじてまだ正常に機能している証拠です。
今の都市空間を見渡してみると、実にさまざまな「無神経な音」が溢れかえっています。
夜の静かな住宅街に響き渡る、車のドアをこれ以上ない勢いで**「バタン!」**と閉める音。
静かなカフェで、まるで親の敵(かたき)であるかのように激しくキーボードを叩きつける**「カシャカシャかッターン!」**という打鍵音。
駅のホームや混雑した電車内、病院の待合室で、周囲の迷惑を気にすることなくスマートフォンから垂れ流される動画の音声や、ワイヤレスイヤホンをつけたままの大声での通話。
さらには、マンションの廊下や駅の階段で、コンクリートの地面に対して凄まじい衝撃音を響かせて**「カツカツカツ」、「ドタドタ」と歩く靴音**。
こういう音を耳にするたびに、心がざわついたり、ちょっぴり悲しい気持ちになったりしますよね。

五感を完全に失った「脳(意識)」だけのバカタレ
これらの騒音を振りまいている人たちは、決して「まわりを威嚇してやろう」とか「みんなを不快にさせてやろう」という悪意を持って音を立てているわけではありません。
ここが一番のポイントなのですが、彼(女)らは「自分がそれほどまでに乱暴な破壊音を周囲に撒き散らしている」というリアルな実感(リアリティ)を、完全に失ってしまっているのです。
音を立てている生身の肉体は確かにそこにあるのに、その肉体をコントロールし、まわりの状況を察知するための**「脳」が、完全に別の場所へと誘拐されて**しまっている――。
これこそが、解剖学者である養老孟司先生が長年警告し続けてきた、現代の**「脳化社会(都市化)」が引き起こした深刻な感覚麻痺の姿**なのです。
そして実は、この都市のやかましさの問題と、私たちが「歳をとれば誰にでも起こる老化現象」だと信じ込んでいる高齢者の「難聴」には、びっくりするほど深い、地続きのつながりがあります。
五感を取り戻せるのか
今回は、養老先生の「バカの壁」や「唯脳論」の視点をヒントにしながら、現代人がいかにして「身体」を盗まれ、耳を塞がれていくのか、そしてそこから健やかな五感を取り戻すにはどうすればいいのかを、じっくりと紐解いていきましょう。
第1章:出力と入力がバグってしまった現代人
「脳」と「感覚」のバランスがバグった現代人
なぜ、現代の都市に住む人々は、こんなにもモノを乱暴に扱い、大きな音を立てて平気でいられるのでしょうか。
養老先生の視点から見ると、これは脳の「出力(運動)」と「入力(感覚)」のバランスが完全にバグってしまっている状態と言えます。
たとえば、先ほど挙げた**女性の「カツカツカツ」、男性の「ドタドタドタ」**と大きな足音を立てて歩く人のことを考えてみましょう。
本来、人間の身体というものは、足の裏のアーチや、膝、股関節を柔らかくクッションのように使うことで、歩くときの衝撃を滑らかに逃がす構造を持っています。
そうやって私たちは、地球の重力とうまく折り合いをつけて歩いているわけですね。

人類が身に着けた直立歩行運動の喪失
しかし、大きな足音を立てるということは、その衝撃の吸収をすべて放棄して、自らの肉体という重い物質をそのまま地面にドスンドスンと落下させている証拠なのです。
当然、そんな歩き方をしていれば、足腰の骨や筋肉は悲鳴を上げ、その衝撃は背骨を通じてダイレクトに脳へと響いているはずです。
身体にとってはめちゃくちゃに疲れる、大きな負担ですよね。
それなのに、なぜ本人は平気な顔をして歩き続けられるのでしょうか?
理由はとてもシンプルです。
スマートフォンを中心とする過剰な情報空間によって、彼らの脳の**「痛みのセンサー」や「感覚のアンテナ」が完全に麻痺**してしまっているからです。
歩き方が悪くて疲れたとは思っていないバカタレ
彼(女)らの意識は100%、スマホの「画面の中」や「脳内の考え事」に持っていかれています。
そのため、**肉体が発している「痛い」「だるい」「響いて不快だ」という危険信号**を、脳が力づくで遮断(カット)してしまっているのですね。
家に帰って靴を脱いだ瞬間、とてつもない疲労や腰痛に襲われても、それが「自分の無神経な歩き方のせいだ」とは夢にも思っていません。
仕事の疲れだと勘違いしているのですね(笑)
養老先生の『唯脳論』にもあるように、**人間の身体とは、外界からの「入力(感覚)」と、それに応じた「出力(運動)」が滑らかに循環する、極めて高度な「自然」**そのものです。
かつて身に着けていた加減の喪失
かつての日本人は、着物を着て草履(ぞうり)を履き、畳や泥の地面の上で暮らす中で、自然と「加減」という身体の作法を身に付けていました。
「自分の出す足音が周囲にどう響くか」
「障子や襖(ふすま)を閉めるときのわずかな音が、部屋の空気をどう変えるか」
そうやって五感を研ぎ澄ませ、外界(他者という名の、思い通りにならない自然)とのバランスを、常にミリ単位で微調整しながら、調和を持って生きていたのです。

ところが、現代の脳化社会では、生きている**生身の物理空間がすっぽりと抜け落ち**てしまいます。
目線はスマホの画面に釘付け、耳にはワイヤレスイヤホンが深く突き刺さっている。
これでは、外界の景色や通りすがる他人は、自分の脳内世界を補完するための「背景(エキストラ)」に過ぎなくなってしまいます。
モノを乱暴に扱うバカタレ
モノを乱暴に扱う人間も、まったく同じ構造です。
ドアをバタンと壊れんばかりに閉める。引き出しをガチャンと叩きつける。
椅子を大きな音を立てて引きずる。
羞恥心、加減を喪失したバカタレ
最近の若者は、重い荷物を背負うリュックを避け、スーツケースをゴロゴロと騒音を立てて転がし歩く姿が目立ちますよね。
彼(女)らは、自分の身体にかかる「ズッシリとした重さ」を徹底的に嫌い、それを車輪という機械に肩代わりさせているのです。身体性の喪失そのものです。
これらはすべて、脳が「ドアを閉める」「モノを移動させる」という目的(記号・結果)だけを認知して、その途中のプロセスで生じる「生身の衝撃や音」を、不要なノイズとして完全にシャットアウトしている状態なのです。
自らの肉体から出る音や作用に対する**「羞恥心」や「加減」の感覚が、綺麗さっぱり消え失せ**てしまう――。
これこそが、**脳化社会の重症患者の典型的な症状**なのです。
第2章:空気を震わせる「喋る騒音」と「意味の過剰」
昔ながらの物理的振動ではないバカタレ騒音
現代の脳化社会における騒音の本質をさらに深く突き詰めると、そこには「意味の過剰」という別の病理が浮かび上がってきます。
昔ながらの「騒音」といえば、自動車のエンジン音や工場の機械音、建設工事の音など、物理的・環境的なものが主流でした。
これらはただの「大きな物理的な振動」ですから、ある程度は聞き流すこともできました。
しかし、現代の都市空間を覆い尽くしているのは、言葉、文字、SNSの通知など、人間の脳に強制的な処理を要求してくる「意味のノイズ」です。
そして**現代人の「喋る」という行為**は、この意味の騒音を自ら大量生産し、公共の場に撒き散らすプロセスになってしまっています。
「喋る騒音」と「意味の過剰」 とにかく喋っている現代人
混雑した電車内やカフェで、耳元に手を当てながら、あるいは何も持たずに虚空に向かって大声で独り言のように喋り続けている人をよく見かけますよね。
ワイヤレスイヤホンの通話機能を使っているのでしょうが、客観的に見れば声のボリュームが異常に大きくなっています。
スピーカーの向こうの相手に届けようとするあまり、まわりの空間への配慮が完全に消えてしまっているのです。
また、道を大声で会話しながら歩く人たち、中にはスマホに向かって喋っている人もいます。
**女性の立ち話も最近は特に大声に**なりましたね(笑)
歩くだけではなく、自転車やバイクに乗りながらも大声で叫ぶように歌いながら通り過ぎる人も増えました。

沈黙を恐れる現代人
なぜ現代人は、この「喋る騒音」を止めることができないのでしょうか。
それは、現代人が「沈黙(意味の空白)」を病的に恐怖しているからです。
すべてのものに意味や効率を求める脳化社会において、**何の意味も生産せず、何も消費していない時間は「悪」あるいは「恐怖」とみなされ**てしまいます。
脳のアイドリング停止、つまり「沈黙の中で自分自身と対峙すること」に耐えられない現代人は、中身のまったくない記号的な言葉(無意味なお喋りや、独り言のようなSNSへの過激な投稿)で、空間の隙間を必死に埋め尽くそうとします。
その結果、社会全体が、**他人の脳が排出した「言葉の排気ガス」で呼吸困難に**陥るほど満たされてしまうことになるのです。
「喋る騒音」がもたらす身体性の喪失 病気になっても気がつかない
この「喋る騒音」がまわりにもたらす害悪は、私たちが思っている以上に深刻です。
一番の被害は、それによって人間が本来聴くべき「身体の声(一次情報)」が完全に書き消されてしまうことです。
まわりの雑多な喋り声や、自分自身が発する無駄な言葉に脳のメモリ(容量)が占有されてしまうため、五感で感じるリアルな現実の気配や、自分の身体の微細な変化(蓄積された疲労や、内臓のちょっとした違和感など)に気づくことができなくなってしまいます。
他人の言葉「強制同期」の暴力性
さらに恐ろしいのは、言葉という騒音の本質が持つ「強制同期」の暴力性です。
ただの物理的な音であれば「あー、うるさいな」と聞き流すことも可能ですが、「言葉」というものは、人間の脳の特性上、耳に入った瞬間に自動的かつ強制的に「意味の解読」を脳に行わせてしまいます。
つまり、大声で私的な会話や通話を撒き散らす人間は、周囲の他人の静寂や思考の自由を強制的に奪い取り、自分の脳内世界に無理やり同期させているのです。
自分を取り囲む公共空間の空気を思い切り汚している自覚がゼロの彼らは、まさに言葉という目に見えない作用によって、空間を不法占有してしまっているのですね。
第3章:高齢者の「加齢性難聴」は、脳化社会の成れの果て?
身体の盗難
さて、このようにスマホという電子の檻に脳を乗っ取られ、今ここにある自分自身の肉体を完全に置き去りにしてしまう状態を、私たちは現代人の「身体の盗難」と呼ぶことができるでしょう。
駅のホームを見ても、電車に乗っても、果ては横断歩道を歩いているときでさえ、人々は一様に首を不自然に折り曲げ、光る小さな画面を血眼になって凝視しています。
耳には外界を遮断する白いプラグが深くねじ込まれています。
彼らの意識は、今ここに存在する物理的な現実世界にはありません。
ネットの向こう側のタイムライン、刺激的なショート動画、あるいはゲームの仮想空間に完全に没入しています。肉体という物質だけが便宜的に街の中に放置されていますが、心(脳)は完全に電子の檻へと引っ越してしまっているのですね。
『脳内難聴』としいう怖い話
この「身体の盗難」が日常化すると、人間の脳には致命的なバグが発生します。
それこそが、本稿の核心である「脳内難聴」です。
これは耳鼻科的な鼓膜や骨の異常ではなく、脳の注意分配フィルターの完全な機能不全を意味します。
現代人の脳は、処理すべきデジタル空間の情報(意味)にキャパシティを限界まで奪われているため、現実世界から入ってくる**「生身の刺激」を不要なノイズとして徹底的にシャットアウトする**ようになります。
現代人に起こっている症状

若い人たちの声がデカいのは難聴になっているからです。
養老先生の視点における若い人の難聴の成れの果てとは、「脳(意識)が身体(耳)をいじめた結果、唯一の外部(現実)への窓を失い、自らの脳が作り出した狭い記号の世界で窒息死すること」です。
身体を「コントロールできる道具」と侮った現代人が迎える、**自業自得の結末**と言えます。
●激しい脳内耳鳴り: 24時間、脳が作り出す不快な雑音に苛まれる。
●幻聴・妄想: 静寂に耐えかねた脳が、過去の記憶を繋ぎ合わせて「誰かが悪口を言っている」等のストーリーを捏造する。
●慢性的なめまいとふらつき: 地面を踏みしめている感覚(現実)が脳に伝わらず、常に浮遊感がある。
●不眠と過緊張: 脳が「危険を察知するセンサー(耳)」を失ったと判断し、24時間、警戒モード(交感神経優位)になり、眠れなくなる。
●ゼロかヒャクかの思考: 文字(SNSや字幕)だけでしか他者を理解できず、文脈を無視して他人の言葉に激昂する。
●会話の独りよがり化: 相手の反応(音)を察知できないため、自分の脳内にある意見(記号)だけを一方的にまくしたてる。
●極度の一人きり(孤立): 予測できない他者との会話を脳が「面倒」と拒絶し、完全に引きこもる。
●時間のゲシュタルト崩壊: 今日がいつなのか、今どれくらい時間が経ったのかの感覚が麻痺する。
●世界のアニメーション化: 周囲の風景が、まるで「画面の中の出来事(偽物)」のように見え、現実感がなくなる(離人症的症状)。
正常な人の自然センサー
本来、人間の身体は周囲の環境と常に相互的なキャッチボールを行っています。
静謐な空間に入れば、脳は自然と感覚の感度を上げ、「今、自分の立てた靴音が大きく響きすぎているから、少し歩き方をコントロールしよう」とか、「この静けさの中でこの声量は他者の迷惑になるな」と、無意識のうちに身体の出力をミリ単位で微調整します。
これが正常な人間の持つ「身体性」であり「自然のセンサー」です。
センサーが働かない現代人は、脳の難聴と盲目
しかし、スマホという電子の檻の中で飼い慣らされ、一日中デジタル情報に脳汁(ドーパミン)を絞り出されている現代人は、このセンサーが完全に破壊されています。
ワイヤレスイヤホンで脳に直接音を流し込み続け、網膜に強烈な光の刺激を浴びせ続けることで、脳が深刻な難聴および盲目状態に陥っているのです。
だからこそ、自分がどれほど周囲にとって乱暴な音を撒き散らしていても、そのリアルな実感が1ミリも自分の脳に届きません。
本人は**本当に「気づいていない」**のです。
高齢者の「難聴」の原因は加齢ではない

そして、この感覚の麻痺を何十年も積み重ね、人生の後半に行き着いた果てに現れるのが、現代社会に蔓延する高齢者の「加齢性難聴」なのではないでしょうか。
世間一般では、歳をとって耳が遠くなるのは「細胞の寿命」や「老化現象」という物理的な、避けては通れないプロセスだと信じ込まれています。
しかし、養老孟司先生の視点、つまり「唯脳論」や「バカの壁」の視点に立ってみると、まったく違う景色が見えてきます。
現代における高齢者の難聴とは、単なるパーツの劣化ではなく、「脳(意識)が、自分の思い通りにならない身体(耳)を切り捨て、都合の悪い情報を完全にシャットアウトしてしまった状態」、つまり**脳化社会の最終形態(成れの果て)の姿**かもしれないのです。
都会の脳化社会では、脳が毎日「意味のある音(記号)」を過剰に選別し、処理することにヘトヘトになっています。
その防衛本能として、脳が自ら耳のシャッターを降ろし、壁を築いてしまいます。
脳が**「現実世界の音を聴くこと」をサボり、放棄し続けた結果**、聴覚のネットワーク全体が退化し、それが最終的に「本当の難聴」となって生体に固定化されていく――。
都市生活の成れの果てが高齢者の難聴
彼(女)らは単に老化によって耳が遠くなったのではありません。
「意味」ばかりを求めて「身体という自然」をないがしろにし続けた、現代のライフスタイルそのものが、自らの耳を機能停止へと追い込んでしまったというわけなのです。
だから、どんどんテレビの音を大きくしていくのです。
本人たちは気がついておらず、知らず知らずボリュームを上げないと脳に届かないのです。
刺激物を好んで食べている人がさらに刺激があるものを欲しがるのと同じ原理ですね。
第4章:科学が証明した「自然の中に生きる人の耳」
老齢性難聴がない人たち
「難聴が脳化社会の現代病だなんて、本当にあるの?」と、少し不思議に思われる方もいるかもしれませんね。
ですが、これを裏付ける驚くべき医学のデータが実際に存在します。
今から50年以上前、アフリカのスーダン奥地に住む先住民族「マバーン族」を対象に行われた、有名な民族疫学の調査(Kiryu University Research Data)があります。
彼らは、電気もなければ機械の駆動音もなく、現代的な騒音とはいっさい無縁の、大自然に囲まれた静かな環境で自給自足の暮らしを営んでいました。
このマバーン族の人々の聴力を年齢別に調べたところ、文化類学者や医学者たちを驚愕させる結果が出たのです。
なんと彼らは、70代や80代のおじいちゃん、おばあちゃんになっても、工業化された都会(アメリカのウィスコンシン州など)に住む20代の若者とまったく同じレベルの、キーンと高い音(高周波)までバッチリ聴き取れていたのです。
彼らの社会には、現代の都会人が高齢になれば100%経験するはずの「老人性難聴」という現象が、ほとんど見られませんでした。

難聴は都市化病
この研究結果は、私たちに決定的な事実を教えてくれています。
歳をとって耳が遠くなるという現象は、人間としての絶対的な寿命や不可避の宿命(老化)ではなく、工業化・都市化、すなわち「脳化社会」が生み出した深刻な環境病(都市化病)であるという事実です。
自然と共生する人たちに老齢難聴はいない
山間部や海辺で、自然と「同期」して暮らしている人々を思い浮かべてみてください。
彼らの暮らしは、風の音や波の満ち引き、虫の声や鳥の鳴き声といった、まさに「花鳥風月」を感じ取る暮らしです。
これらの自然の音には、現代の都会にあるような言語的な「意味」や「目的」は存在しません。
波の音が何かを命令してくるわけでも、スマホの通知のように行動を急かしてくるわけでもありませんよね。
しかし、自然と共に生きる人々にとって、それらの音は生命に関わる極めて重要な「一次情報」です。
風の音のわずかな変化から天候の崩れを察知し、鳥の鳴き方の違いから山や森の異変(気配)を感じ取る必要があるからです。

養老先生の言葉を借りれば、彼らは「意識(脳)」だけで生きているのではなく、五感のすべてを通じて「自然(身体)」と常に対話をし続けています。
脳が「意味(言葉)は持たないけれど、生命にとって決定的に重要な生の情報」を聴き取ろうとして、五感のセンサーを一生懸命、死ぬまで稼働させ続けます。
その結果、聴覚のネットワークが刺激され、いくつになっても耳の神経や細胞が退化することなく、若々しく保たれるのです。
自然のリズムに身を任せる=「南無+音」参りました
自然のリズムに身体を合わせる(同期する)暮らしは、人間の脳(意識)では絶対に変えられない大きな流れに身を委ねる暮らしでもあります。
それは**過度なストレスから解放され、自律神経を安定させ、血管を若々しく保つ**ことにつながります。
耳の奥にある聴覚細胞(内耳)は、非常に微細な血管によって栄養を補給されているため、**血流が良い自然の暮らしは、物理的な意味でも耳の細胞が死滅するのを力強く防いで**くれるのです。
第5章:100%自分都合の世界で肥大化する「幼児性」のワナ
大人の赤ん坊化
このように、自然の音を聴く人たちの耳が若々しい一方で、都会の「脳化社会」が行き着く先には、もう一つの恐ろしい落とし穴があります。
それこそが、社会全体の「幼児化」と「ネット空間での共依存」です。
スマートフォンの画面の中というものは、指先ひとつ(フリックやスワイプ)で気に入らない動画や不快な情報を一瞬で消し去ることができます。
ミュートボタンやブロックボタンひとつで、自分の世界から嫌いな人間を完全に排除できる、まさに「100%自分にとって都合の良い、清潔で管理された記号の世界」です。
そこには、こちらの思い通りにならない「自然」や、言葉の通じない「本物の他者」という異物が存在しません。
すべてが予測可能であり、自分の全能感を優しく満たしてくれる、ゆりかごのような空間です。

精神的に「大人の皮を被った赤ん坊(幼児)」
このデジタル情報空間の快適さに過剰に適応してしまった現代人は、**精神的に「大人の皮を被った赤ん坊(幼児)」**へと退行していってしまいます。
赤ん坊というものは、自分が泣き叫べば周囲がどう迷惑するかなど考えません。
なぜなら彼らにとって世界とは、「自分の欲求を満たすためだけに存在する背景」だからです。
現代の都会で騒音を撒き散らしている人たちの精神構造は、これと完全に一致してしまっています。
彼らにとって、公共の空間とは「自分の快適な脳内世界を維持したまま移動するための通路」に過ぎず、そこにいる他者は生身の人間ではなく、ゲームの背景に配置されたオブジェクト(風景)に過ぎません。
風景を相手にしているのですから、どれだけ大きな音を立てようが、乱暴に振る舞おうが、罪悪感を覚えるはずがないのです。
情報の家畜の悲鳴は身体性のカウンター
さらに深刻なのは、ネット空間における「騒音を撒き散らすバカ」と「それを画面の裏で叩いて正義に溺れるバカ」の共依存関係です。
SNSのタイムラインを見れば、電車内のマナー違反や、街で見かけた無神経な人間の様子を盗撮し、「こいつは社会の害悪だ」と激しい言葉で糾弾(炎上)させている光景が日常茶飯事となっています。
一見、彼らは社会の秩序やマナーを守ろうとする「正義の味方」であるかのように振る舞っていますが、その本質は、騒音を撒き散らしている当事者と何も変わりません。
なぜなら、彼らもまた、生身の現実世界(地べた)から足を浮かせ、スマートフォンという「電子の檻」の内部で、お互いに吠え合って脳内にドーパミン(脳内麻薬)を分泌させて喜んでいるだけの、情報の家畜(依存症のループ)に過ぎないからです。
目の前の無神経な他者に対して、その場で直接「少し静かにしていただけませんか」と、生身の身体と自分の言葉を使ってコミュニケーションを取ろうとすれば、そこには「予測不可能な相手の反応」という、ある種のリスク(自然)が伴います。
相手が逆上するかもしれないし、無視されるかもしれない。
しかし、ネットの裏側に隠れて匿名で他者を叩く行為には、何のリスクもありません。
自分は安全な檻の中に引きこもったまま、思い通りにならない他者を「絶対的な悪」として記号化し、それを叩くことで「自分は目覚めた正義の側にいる」という歪んだ自己愛を満たしているだけなのです。

自律神経失調の不眠、身体の異変がわからない
現代人の頭の中は、絶え間ない情報の洪水によって常に狂気的なやかましさに達しています。
この頭の中のノイズに耐えきれなくなった脳は、過覚醒状態に陥り、自律神経を失調させ、睡眠の質を悪化させていきます。
そして、自分の内側のやかましさをかき消すために、今度は外の世界に向けてさらに大きな音(SNSでの過激な他者攻撃や、公共の場での大声、ドタドタという破壊的な歩行)を撒き散らす――。
現代人が街で発するあの雑で暴力的な音は、実は、脳がデジタルシステムによって圧殺されかかっている悲鳴そのものなのかもしれません。
結論:三毛猫師匠の「足音のない歩み」に学ぶ、身体性の奪還
「たまごっち」より脳化(デジタル)の病理がスマホ
かつて1990年代の後半、日本中が「死」さえもボタンひとつでリセット・消去できると錯覚させた電子玩具「たまごっち」の大流行に熱狂しました。
養老孟司先生が当時から的確に警告されていたように、あの時代から、私たちは自ら進んでデジタルシステムという名の檻の中に収まるプロセスを、一歩一歩着実に歩み続けてきました。
現代のスマートフォンは、その「たまごっちの檻」を数万倍に巨大化させ、人類全員をその中に閉じ込めたようなものです。
画面の中の全能感に溺れ、重たくて、思い通りにならず、不自由で、しかしそれゆえに愛おしい「肉体の現実」を見失ってしまった現代人。
彼らはもはや、自分が発する音の暴力性にすら気づけないほど、身体をデジタル空間に盗まれてしまっています。
この絶望的なデジタル地獄、脳化社会の檻から這い出し、人間としての尊厳と健やかな身体性、そして「若々しい耳」を取り戻すための処方箋は、一体どこにあるのでしょうか。
猫は足音を立てない

その答えは、実は私たちのすぐ足元にあります。
たとえば、我が家で暮らす三毛猫師匠の、あの「足音のないしなやかな歩み」にこそ、私たちは学ぶべきなのです。
猫が足音を立てない理由に気がつかないのです。
猫は、自分の体重という物理的な現実を、肉球やしなやかな筋肉のすべてを使って完璧にコントロールしながら歩きます。
彼らは世界を「自分都合の背景」としては見ていません。
外界のわずかな風の音、空気の振動、他者の気配といった「意味のない、しかし予測不能な自然」に対して、常に五感のセンサーを最大感度で研ぎ澄ませて生きています。
だからこそ、彼らは世界に対して調和した、静かで、品のある美しい所作を保ち続けることができるのです。
五感(身体性)を失った成れの果ての恐怖
私たちが今すぐ取り戻すべきなのは、リセットボタンの存在しない、この「地べた」の感覚です。
まずは、耳に突き刺さった白いプラグ(ワイヤレスイヤホン)をそっと引き抜き、スマートフォンの画面から視線を上げて、目の前にある現実の空気を深く吸い込むことから始めませんか?
自分が一歩歩くごとに、地面から返ってくる衝撃の強さに意識を向けてみる。
ドアを閉めるときの手のひらの感覚に、丁寧な「加減」を取り戻してみる。
自分が発する言葉の響きが、周囲の空間にどのような波紋を広げているかを、麻痺した脳ではなく、生身の身体で感じ取ってみる。
そして、時には都会を離れ、あるいは都会の公園の片隅で、ただ「意味のない自然の音」にじっと耳を澄ませてみる。

重たくて、思い通りにならない**肉体という名の「自然」**を再び愛おしみ、その手綱を自分自身の手に取り戻したとき、都市を覆うやかましい騒音の嵐は静かに止んでいくはずです。
スマホの檻から一歩外へ這い出して、盗まれたあなたの愛おしい身体と、豊かな世界の音律を、今こそ優しく奪還しましょう。
四季の移ろいや花鳥風月をゆったりと感じるその豊かな感性こそが、私たちの心と耳を脳化社会という病理から守ってくれる、何よりの、そして最高のバリアなのですから。



