釈尊の教えは思想

㊹ 魂説で納得していた日本人

欧米化で変貌する日本人

 前稿までは、現代人は脳で考え出したモノを形にし人工物とバーチャル、つまり自然を嫌い排除した脳が化けた社会の中で暮らしていると書いた。
その結果、花鳥風月に触れることもないないから五感(感覚)が機能してない現代社会の人ばかりになったと養老先生の解説から書いてきた。
 これは一神教の欧米思想の影響で、自然やモノは人が人工的に征服するものと考えたのに加え、人は自分のことを死なないと勘違いするようにもなったからだという。

そんなことはない、と思われるかもしれないが現に高層団地から死は排除された他、周囲を見渡せば人が死ぬことを想定していない設備だらけになっている。(過去記事参照)
 人が死ぬということを知識としてはわかっていても、実際にはわかっていないのだろうと思われる。死を忌み嫌い、核家族化は老人を施設に追いやり少子化にもなった。
さらには、欧米の個人主義を勘違いし取り入れた日本人の中には、オレが!オレが!の自己主張をし”今だけ、金だけ、自分だけ”の人も多くみられるのが現在だ。

不死身の人

いつからこうした勘違いが生まれたのか

【養老】「おそらく十九世紀です。情報化社会が生まれてから、 人間の意識が変わってきたのです。
ここでいう情報化社会とは、(中略)本来、日々変化しているはずの人間が不変の情報と化した社会のことを指しています。(中略)本来、人間は日々変化するものです。
生物なのだから当たり前です。眠っているあいだにも身体は変化している。脳細胞だって変化している。
それでも毎日目が覚めるたびに「今日の俺は昨日の俺とは別人だ」と思うようでは、 社会生活も何もあったものではない。

だから、意識は「昨日の俺は今日の俺と同じだ」 と自分に言い聞かせ続けます。日々 。情報が変化するというのは勘違いで、実はテープに録音したお喋りは、何年たっても変化しません。
テープレコーダーに入れて再生すればまったく同じ。三年たって聞き直したら考え直していたなんてことはありません。」(「死の壁」不死の病)

変化する自分とは反対に、変わらないのが「情報」。

 つまり、人間は日々細胞が入れ替わっており7年も経てば全て入れ変わり別人になるが、情報はいつまでも変わらないものである、というのが本来の性質ということになる。

自分は変わらないと勘違いした

【養老】「ところがこれを逆に考えるようになったのが近代です。これが私が言うところの『情報化社会』です。
『私』は変わらない、変わっていくのは世の中の情報である、という考え方の社会です。脳中心の社会と言ってもいい。」(同)

矛盾から昔の人は「魂」を作り出した

【養老】「このように『人間は変わらない』という勘違いから妙な疑問が湧いてきます。
『俺は俺』『私は私』で不変の意識であるはずだ。不変だとすれば、どうしてそれが消えなくてはいけないのか。何で死ななきゃならねえんだという疑問です。
もちろん、よほど変わった人でない限り、『俺は不死身だ』と言い張りはしません。それでも、情報はローマ時代から残っているのに自分は死ななくてはいけないということが納得できていないのではないか。
『変わらない自分』が存在しているのに、どうしてそれが死ななくてはいけないのか、ということです。
昔の人もこの矛盾もしくは理不尽には気づいていました。だから『』という概念を作り出した。

そして自分が消えても意識は残るはずだ、ということを『魂が残る』というように考えて、納得していたのでしょう。」

科学に「魂」を否定されて…

 しかし、近代に入ると、「進歩した人間が魂を信じるのはおかしい、科学的ではない」ということで、科学はその「魂」という考え方を否定してしまった。

【養老】「今では特定の信仰を持っている人以外は、『魂』を心底信じるとはあまり言わない。さあこうなると答えがなくなってしまいます。『魂は無い。でも俺の意識は不死身のはずだ』では矛盾してしまいます。
そこでどうなったかといえば、『何が何でも死なない』という意識が出てきたのです。
何度も言いますが、そんなことを声高に主張している人が現れたという意味ではありません。しかしどこかでそういう意識を持ってしまったということです。
かつて『魂』という概念を持っているときには、死についての捉え方に矛盾は生じなかったのです。
『身体は滅びる。しかし魂は残る。だから意識は不滅だ』という論理です。そこで説明が出来ていた。考えが止まっていた、と言ってもいいでしょう。」(同)

魂を否定されても…「俺は俺」の矛盾

 しかし、「俺は俺」「私は私」という思い込みばかりが強くなり、自分は変わらないという考え方が一般化したにもかかわらず、魂を否定すると、答えがなくなってしまう矛盾が生まれた。

【養老】「『身体は滅びる。科学的には魂は存在しない。でも意識は不滅だ』では筋が通りません。 これが、『情報化社会』、すなわち意識中心の社会(脳化社会)になったことによる矛盾の一つなのです。」(同)

「俺は俺」「私は私」の日本人

「俺は俺」「私は私」という存在があるという思い込みが前提にある多くの日本人の意識を変えるのは難しいのではないか、と拙ブログを書いていて強く感じる。

【養老】「あまりに一般化しているので、かえってそういう思い込みがあるといってもピンと来なかったりするようです。
おそらくこの思い込みというか論理は、なかなか破られにくいものだからこそ、一般化したのでしょう。
破られにくいのは、たとえ他人から指摘されても「変わった部分は 本当の自分ではない」という言い訳が常に成り立つからです。
たとえば恋愛の末、結婚をして夫婦になった。しかし十年経ってみて相手のことが嫌になった。別に珍しいことではありません。
このときに、「私は私」という意識が前提になっているとどう思うか。『あのとき、あの人を好きだと思っていた自分は本当の自分ではなかった』という論理が展開できるわけです。

『今、あの人を見るだけで虫唾が走る。その気持ちを持っている自分が実は本当の私なんだ』ということです。

「本当の自分」は無敵の論理

 この論理はいくらでも使い回しが出来ることになると、個人に限らず、たとえば戦争中と戦後の日本の変化についても都合よく言い訳に使えることになる。

【養老】「あの時は血迷って戦争をしかけたけれども、あれは本当の私たちではないのです。今の平和な私こそが本当の私です」ということです。
どんなに自分が変わろうと、常に今現在の自分を『本当の自分』だとしておく。『変わった部分は自分じゃない』とする。」(同)

 しかし、「本当はそんなはずなかった」「あの時の自分は自分ではない」を繰り返していても、いずれ誰もが寿命を迎えることになる。

自分を探さなくとも、そこにいるのがあなた

【養老】「だから、論理としてはおかしくても、破綻はしないということになる。最後は死んだ自分が本当の自分で、『話が違う』と言われたところで痛くも痒くもありません。
もちろん、日常生活のなかで『あの時は考えが足りなかった』と反省をするということは悪いことではありません。『男を見る眼がなかった』という人もたくさんいることでしょう。
ここで問題にしているのはそういうことではなくて、『あの時の自分は、本当の自分ではなかった。本当の自分を見失っていた』という理屈です。
そんなことはあり得ないのです。今、そこにいるお前はお前だろう、それ以外のお前なんてどこにいるんだ、ということなのです。

『自分探し』などと言いますが、『本当の自分』を見つけるのは実に簡単です。
今そこにいるのです。」(「死の壁」不死の病)

今を生きる

 おそらく、ほとんどの人が、あの世があってペットを含め愛する家族や友人知人とまた会える、来世もあってまた会えると心のどこかで思っているのではないだろうか。
しかしそんなことはなく死んだらお終い、死んだ本人も脳が機能しないから意識もない。一瞬にして終わる訳だ。
私はそのことを理解した瞬間、恐ろしくも思うと同時に殺しはもちろんのこと自殺も許されることでなく、いかにこの世に生を受けたいま一瞬一瞬が大切かを痛感した。
すべが一期一会なんだと思って暮らしている。