慈悲の理想を実践 ガンジーからキングへ

釈尊の教えは思想

 

 無傷害を楽しむ

 前回の拙稿では、慈悲の徳について、仏典「スッタニパータ」の中の「慈しみ」をもとに個々人の備えるべき「徳」とは何かを中村元先生の講義をもとに書いた。
 植木雅俊先生がサンスクリット語原典から現代語訳された法華経に登場する常不軽菩薩の振る舞い(人は誰でも尊いと万民に尊厳を見て礼拝を行った)も、この慈悲の徳を備えた人が実践する真の姿として登場させており今後の項で取り上げる予定である。

ガンジー

 さて、この「慈悲の徳」も個人的な理想つまり「自分だけはちゃんとしていれば良い」としている限りでは社会的な勢力とはならないと中村先生は指摘し、実際に仏教で説く慈悲の理想を社会的な実践運動(善の連帯)として取り入れ展開したのが、ガンジー(1869-1948年)だと講義されている。

「ガンジーは、インドの西方の半島にボロアンデルという小港がありますが、そこの商人の家に生れました。(中略)ガンジーはその慈悲の理想を現代の場面に生かそうとしたわけです。当時のインド人はイギリスの帝国主義的侵略のもとに苦しんでいました。これを追いのけるのにはどうしたらいいか。彼らは争力をもって 迫ってきた。ところが暴力に対するのに、インド人が同じように武力をもってすれば、悪にむくいるに悪をもってすることになります。これではほんとうの理想は実現できない、そう思いまして、無傷害の理想を政治運動の中に生かそうとしました。そこで イギリス製品の不貨運動とか、ボイコットとか、暴力によらない反抗運動というものを実行しました。そしてついにインドの独立をかちとったわけです。」(中村元著 原始仏典を読むp287-8)



 ガンジーの行動は人類の歴史における一つの偉大なる実験となり、このことが、他の地域にも影響を与えることになり太平洋を越えてアメリカへ渡った。アメリカ合衆国のプロテスタントバプテスト派の牧師であるマルチン・ルーサー・キングがインドのガンジーの非暴力的抵抗の教えに共感し非暴力差別抵抗活動を行った。このことについても中村先生は次の様に講義されている。

キング

 「アメリカの南部諸州ではかつては非常な人種的迫害が行なわれておりました。非常に差別待遇がなされていました。
そこで黒人の解放運動ということが、1960年代に大きな問題になりましたが、その指導者のマルチン・ルーサー・キング1929-68年) という黒人教師は、黒人の自由を獲得するためにはガンジーの方法によるべきであると主張して、その方法を黒人解放運動に採り入れ、大きな影響を与えました。」(中村元著 原始仏典を読むp287-8)


 このような運動もあって黒人の地位もかなり向上し、現在では米国大統領、副大統領を輩出するまでになっている。

われは万人の仲間なり、万人の友なり、無傷害を楽しむ

中村先生は、
「この思想が現実の闘争、レジスタンス(抵抗運動)の中において生かされるということになりました。
他人を愛する、他人とともに生きるということは決して邪悪をそのまま認めるということではありません。

 邪悪はどこまでもはねのけなければならない。ただ邪悪を取り除くために、こちら側も邪悪をおかすというよう なことであっては、罪は五分五分になってしまいます。
そうではなく、こちらは高い理想をもって対抗しようとする。その淵源をここまでたどることができるのであります。」(中村元著 原始仏典を読むp287-8)

日蓮、マンデラ、宮沢賢治、中村哲

 植木雅俊先生は、自著「法華経とは何か」(p229-230) の中で、常不軽菩薩の振る舞いを実践した人たちとして、このガンジー、キングにマンデラなどを挙げられている。
 また、「日蓮が常不軽菩薩になぞらえて、『法華経の行者』と称していたし、宮沢賢治の、『雨ニモマケズ』に登場する『デクノボー』は、この常不軽菩薩がモデルであった。」と解説されている。

(『雨ニモマケズ』は、宮沢賢治の没後にカバンの中から発見された遺作のメモであるが、一般には詩として受容され広く知られており、賢治の代表作のひとつとも 言われている。)

 私は、近年では、アフガニスタンで頻発する干ばつに対処するため、約1,600本の井戸を掘り、クナール川から全長25.5kmの灌漑用水路を約17年間かけ建設し、その用水路群の水で65万人以上の命を支えられるようにした日本人医師の中村哲氏を挙げたい。
(2019年12月4日にアフガニスタンのジャラーラーバードにて銃撃され死去)

日蓮の国家諌暁「立正安国論

 鎌倉時代の僧、日蓮は困窮する万民を直ちに救えと、「立正安国論」を認め、当時の幕府へ送り国家諌暁をしている。
 日蓮が民衆に働きかけ蜂起をさせなかったのは、当時は「君に忠」、「親に孝」つまり、主君や親は絶対であり従わなければならないという時代背景があり、民衆による蜂起など出来るはずがなく、それで日蓮自らが直接、幕府を諫める形をとっている。

しかし、鎌倉幕府は黙殺どころか日蓮を迫害し殺そうとした。
 鎌倉幕府が、日蓮を迫害した理由については、平安時代は日蓮の主張する法華経思想を根本とした公家政治が行われていたが、公家たちは京都中心に政を行い、地方行政については有力な農民たちに任せっきりで関知していなかったことから、その不満がいつしか武器を手にした農民たちによる政権交代を成し遂げて、武家政治が始まったのが鎌倉時代だと言われる。

 だから、それ以前の公家たちの政に関する諸行事は全て否定しているのが武士たちによる鎌倉幕府なので法華経思想も当然排除した。
 そんな中、最後に登場した日蓮が、公家たちが政の根本とした法華経思想を主張したので、公家の回し者かと思い迫害したのが真意の様だ。
 法華経、日蓮については、この後の植木雅俊先生解説の法華経の項で取り上げたい。