「自分」とはナビの矢印

釈尊の教えは思想

㊸ 「自分」とはナビの矢印にすぎない

個性発揮のウソ

 前拙稿は「個人主義と子供の自殺」を取り上げた。
日本人は仏教伝来以降、仏教思想を根本に暮らして来たので、仏教の基本的な考え方である「縁起」(すべての存在は、無数の縁によって結ばれており、ずっと変わらないものは何もない)なので、仏教思想には「自己」はない、という考えがある。(『縁起』または『空』とも言う)
※ちなみに、日常使われている「縁起が良い、悪い」「ご縁がある、ない」は転化されたもので本来の意味ではない似非。
 しかし、敗戦後の日本社会は欧米化により「自己」があると思い込む個人主義が広がり、「自分の命は自分のものだから死ぬのも自分で決められる」と勘違いし子供の自殺も増えた。
 欧米の個人主義思想の影響を受け「自分」を重要視する傾向が強くなった日本人は、個々人の「個性」や「独自性」が大切だと学校や職場で「個性の発揮」を求める風潮にもなった。
オレが!オレが!の自己主張の人が目立つのもこの欧米化の影響によるものだが、そもそも欧米人は一神教の神と自分という思想が根底にあり、日本人のような我見とは違う。

井上陽水のつぶやき

 有難いことに拙稿をお読みいただいている方よりSNSで感想をいただいた。前稿と今回の内容の核心をつくコメントなのでご紹介したい
「井上陽水が昔、『アイデンティティて何に必要なの?』て言ってたとき、ファンだった私は(なに言ってんだコイツ)と思ったのですが、少しわかった気がします。」
この方はいつも的を射た投稿をされるので日々気づきをいただいている。
 陽水の発言は、当時「自己」や「自我」、「自分は何者か?」などさんざん言われていた時代だったのだろうか、それに対し「自己なんて何に役立の?」「そもそもそんなものはあるの?」と、名曲をたくさん生み出して来た陽水ならではの感覚からの指摘だろうか。さすが陽水だと思う。
 養老孟司先生も「そんなものがどれだけ大切なのかは疑わしい」著書(「自分」の壁)と言っている。

「個性」とは身体のこと

【養老】個性とは生まれつき与えられた身体のこと。大谷翔平選手を見れば、すぐわかる。大谷選手の身体を真似することはできませんから。」(ものがわかるということ)
 

 さらに、「自分らしく生きる」「個性を伸ばす」といった言葉にも、思い違いが潜んでいると指摘し、「自分らしさ・個性」というと心の話のような気がするが、養老先生は「心に個性はない」「心とは共通性のこと」だと言うのだとし以下のように説明されている。

【養老】「私の個性は私だけの考え、私だけの感情、私だけの思いにある。ここに大きな誤解があります。心に個性はありません。(中略)私の考えを説明して、それがわかってもらえたら、それは私だけの考えじゃなくなるんです。だから心は共通です。じゃあ、個性とは何か。個性とは身体です」(同)


【養老】「ヒトは刻一刻と変化しています。新しいことを学んで考えが変わったり、状況によって気分が変わったり、老いて見た目が変わったり……。

でも、脳は変化するものを全部違うものだと認識していては、パンクしてしまう。そこで、一貫した「自分・自己」を固定する。つまり、「自分・自己」はヒトの脳のはたらきによって生まれたものなのです。典型的な例は名前です。名前はずっと同じでも、5歳と80歳では見た目が全く違うでしょう。」

 さらに、養老先生は「自分の親にすら皮膚を移植することはできないように、自分と他人を区別できる最大の要素は身体にある。」(同)

「自分とは何か」

 おそらく、きちんとこたえられる人はほとんどいないだろう。日頃深く考えることもない、この「自分とは何か」。
特に自己主張が強い人ほど、この「自分」があると根拠もなく信じ込んでいるから厄介なのも現実だ。
今回は養老先生の著書「自分の壁」から書いておきたい。

自分とはナビの矢印

【養老】「僕は、自分とは「ナビの矢印だよ」って言うんです。ナビって矢印がないと使えないんだよと。地図上の現在位置を示す矢印です。
じゃ、矢印の中に何かがあるかといったら、ないんですよ。でも、矢印があればいいんです。
矢印があれば、役に立つでしょ?自分がどこにいるかがわかるんです。矢印がないとわからない。矢印の中に何があるのかと、一生懸命考えても、何もないんだ。僕はそう思っている。」(同)

【養老】「そもそも『自分』とは一体何なのだろう。この問題はずっと気になっていました。
なんとなく答えが見えてきたように感じたのは、”動物は『自分』を持っているのだろうか”ということを考えはじめてからでした。

私たちは『自分』があって当たり前だと思っています。むしろ”『自分』なんてない”と考えている人はほとんどいない。
でも、ほかの動物もそうなのか。そのことを少し考えてみましょう。


多くの動物は、帰る巣、根域をもっています。
一番わかりやすいのは、ミツバチでしょう。みんなきちんと規則正しく巣に帰ってくる。
別にミツバチに限らず、多くの動物が道に迷わず巣に帰れます。
 なぜ、そんなことができるか。それは頭の中に地図を持っているからです。自分が今どこにいて、巣はここから南のほうにある、といった情報が頭の中にあります。
それは別に動物に限った話ではありません。人間も基本的には頭の中に地図を持っています。

自宅がどこで、駅がどこで、会社がどこで、というのがわかっている。だから普段、きちんと会社に行って家に帰れるわけです。

方向音痴でいつも困っているという人もいるでしょうが、そういう人も、自分の足りない方向感覚を何らかの形でおぎなって暮らしています。」(「自分」の壁)

 これを読んだ時に驚いたが、確かにそうだとストンと納得もした。

現在地がない地図は迷子になる

【養老】「昔困ったことがあるんだもの。田舎へ虫を捕りに行くでしょう。すると、田舎にね、ちゃんと絵図があったんですよ。今みたいにグーグルマップがない時代だから。
その絵図には山が描いてあって、村役場が描いてある。だけどね、肝心な看板の位置、つまり現在地が書いてないの。だから、アウトなんです。『それで、一体俺は、どこにいるんだよ!』って。」(同)

【養老】「普通に自分がいると思っている状態をそもそも説明できるか?自分とは何か?どうして自分は自分だと思っていられるのか?朝起きたら虫になっていても意識は、自分は自分だと思っている。意識はすごく変だ。自分て何かというと根本はナビの矢印と思っている。」

 養老先生の「自分の壁」の説明をまとめると、「自分」とは頭の中のナビで現在位置を示す矢印。
動物やヒトには現在位置が分かるようになっている。それがわたし
しかし、それが壊れると面白いことが起こると以下のように解説されている。

体験から科学的に証明されている

【養老】「脳卒中の発作を起こしたひとでまず起こったのは『自分が水になっていく。液体のようになって広がっていく感じ。どんどん広がっていく。』頭の中に現在位置があったものが壊れる。最終的には自分が宇宙世界と一致してしまう。
それは世界との一体感といって滝にうたれたり断食したりして体験するようなことと同じ感じになる。非常に気持ち良いそうだ。
ナビはみんな持っているもので、ナビの矢印が壊れればナビ自体が自分になる。人間は頭の中に持っているものを自分で創る。持っているということに気づいていないだけだ」

 これを読んで私は人間を含めて万物は宇宙の営みのひとつだなとあらためて認識した。

ナビの矢印説は、脳卒中体験の結果と一致

 養老先生が言う「自分」とは地図の中の現在位置の矢印説は、アメリカの脳神経医学者ジル・ボルト・テイラーするの脳卒中体験の結果と一致するという。
 脳の空間定位の領野(=自己の領域を決めている)が壊れて、からだの境界がわからなくなり、他のものとの区別がつかない、流体であるかのように感じた体験である。世界と一緒になった感じがしたという。
臨死体験も同じである。とても気持ちが良かったという感想が多い。「ぜんぶ自分」となると敵も異物もなくなるので至福の常態になるようだ。
また、養老先生は、各地の講演会などで面白い話をされている。
 野球やサッカーなどフィールスポーツの選手などは自分がナビの矢印があり、ちょうど地図を上から見ているのと同じだから動けるのだという。
 私ごとだが、初めて訪れた街をスマホの地図通り歩いていたら、突然地図の矢印がクルンクルンして何処を示そうとしているのか止まらなくなったことがあった。結局、通行人に聞きながら目的地にたどり着いた冷や汗の体験がある。
自分の中の矢印も壊れたら大変なことになると記事を書きなから記憶が蘇って来た。


 加えて、車の運転も同じで、我々には四方八方に巡らせたセンサー(感覚)があるから運転できるのであって、これのどれか一つでも壊れた人が運転していたら、危なくて仕方ないし交通事故を起こすだろうという。
最近の車や自転車の事故はこれが多いのではないかと考えるようになった。

養老思想『唯脳論』は仏典の現代解説

【養老】「自己はいまでは当然に使われているが、仏教ではよく無我という。意識の中の自分も、多分それと似たようなもの。なぜかというと、自己とはナビの矢印だからである。
矢印がないナビは使えない。動物は世界を動き回るので、ナビが必要である。そこにはその動物なりの世界地図と、現在位置を示す矢印つまり自分が入っている。
この矢印を消すと、何が起こるか。世界地図全体が「自己」になる。それを世界あるいは宇宙との一体感という。」(同)

仏教では「無我」

 養老先生の思想書『唯脳論』の結論には、お経と同じであることを発見したとあり、それは「諸行無常」と「無我」であると。
【養老】「諸行無常で自分は常に変わり続けているから自分もまた自分のものではない。だから無我になる。西洋でいう自我などは存在しない。結局、『唯脳論』は原始仏教の思想を現代風に解説したことになる」という総括をしている。※「原始仏教」とは釈尊の教えに最も近い仏典
 このことは、私がこのブログを書くことにした発端だが、仏典と養老思想を読み比べるとまったく同じ事が書かれていたことに驚き、それでは一人でも多くの方に養老思想を通して釈尊の教えを知っていただこうと様々な角度から取り上げ記事にしているもの。

矢印に『自己確立』とか『個性を伸ばせ』は無理強い

【養老】「日本文化は、欧米と異なり『個性』(=自我)を求めない。
地図の中の矢印に過ぎないものに『自己確立』とか『個性を伸ばせ』とかの教育は無理強いであり、結果も思わしくない。それより、世間との折り合いの大切さを教える方が遙かにましである。」(同)

世間との折り合いの大切さとは慈悲

 これこそ、釈尊の説いた「慈悲」つまり相手の身になって考えることだろう。
養老先生から「無我」の話が出たので、養老先生の大先輩で世界に誇る大哲学者の中村元先生がNHKこころの時代「ブッダの人と思想」の中で解説しているので紹介する。

「無我」とは我執をなくせよの意味

【中村】「自分の身体だって自分のものとは言えないわけです。そうすると、我がものというものは、結局永遠に存するものではない。これが我であると言われるものも、永遠に存するわけではないですね。
 またこれが自分の我であると考えられるものだって、永久不滅とは言えないわけです。そうすると、どんなものでも自分のものではない。
だから如何なるものも我ではない。そういうことを仏教では説くわけです。それが「非我説」です。」

「無我」とは「非我」(自分のものに非ず)

【中村】「『無我』という意味は、『我執がない』という意味なんですよ。『我執を無くせよ』という意味です。
我々が生きている限りはやっぱり我執というものをもっているわけですが、ただ『それにとらわれるな』ということです。それで、「諸法無我」という言い方があるんですね。「諸法」というのは、諸々の事物という意味です。(中略)
だから実体がない。それを「無我」と呼んで、「諸法無我」という言葉で言い表した。(中略)これが後代になりますと、「無我」というのは、「我が無い」という意味にとってしまうんですね。
それで「我執がない」という意味の「我がない」じゃなくて、行為の主体がないという意味に取られてしまった。だから、「無我」よりも「非我」(自分のものに非ず)を使う方が誤解を招きません。」

 (「我執」とは、自分の心身の中に、恒常不変の実体があると考えて執着すること。)