幸福を願えば不幸になる?

釈尊の教えは思想

㉓ 幸せになりたい=今の自分は惨めで不幸だ

 これまで、「人間はどう生きるべきか」を釈尊の教えを集めた原始仏典をもとに中村元先生の解説と関連する養老孟司先生の言葉や動画を引用し書いてきたが、その根底にあるものは、この世界で、”人として、たもつもの(道理)を自覚”し、それを実践することの大切さが書かれており、いわゆるおすがり信仰的なもの、神秘主義的なものは一切ないことがわかる。
どうして仏教がわが国では、おすがり信仰になったのかはこの後も続けて書いて行く中で明らかにしたい。

 さて、拙稿「11.人生の幸福 -自分の体が分からない」では、人生の幸福とは何であるか?について、「スッタニパータ」という原始仏典にある「こよなき幸せ」という一節を中村元先生の仏典解説、それに関連し養老孟司先生の動画「森とは何か」を掲載した。
 今回はさらに、「幸福になりたい。そう願う人が不幸になる」。その理由を養老孟司先生の言葉から読み解きたい。
 「幸せになりたい。」これを言う人が不幸になる。養老先生の扉画像のコメントに驚かれた方も多いだろう。
「幸せになりたい=今の自分は惨めで不幸だ」ということになるが、それに気づかず、とにかく”幸せになりたい”と願ったり、祈ったりするのが日本人ではないだろうか。新興宗教はここを利用したのかも知れない。
 人によっては、”今よりもさらに幸せになりたい”のがなぜ悪いの?という方もいるだろう。しかし、それも今よりということは、今は幸せでないと認めていることになるがそう理解されていない。
 年始に神社に行って”幸せになりたい”と願っている人を見ると、神様のご利益は賞味期限が一年なのか?と疑問に思う。

人との関係で幸不幸を語っている - 養老孟司

ハッピーコンデリ症という言葉があるがご存じだろうか。
 ”自分は今よりも幸福でなければならない”と考えるせいで、実際よりも不幸だと思い込む症状のことだ。
 これは、拙稿「21.社会人としての倫理 五戒」の最後に「思い込んだ瞬間、脳は騙される」養老先生の動画を掲載したが、「幸せになりたい=自分は惨めで不幸です」と一所懸命摺り込んでいることになるから脳は自分は不幸だと騙される訳だ。
幸福になりたいと願う人が幸福から遠ざかる皮肉」、だから、「幸福か否か」という2択で考えるのではなく、「どのくらい幸福か」で現在の自分をとらえる方が健全だと指摘するのは、ストックホルム商科大学経営戦略・マーケティング学部教授のミカエル・ダレーンだ。

幸福になりたいと願う人が幸福から遠ざかる皮肉

フィンランド人も考えすぎれば簡単に不幸に - ミカエル・ダレーン
「国連の「世界幸福度報告書」でフィンランドが世界で最も幸せな国に選ばれたとき、私はヘルシンキの大学で客員教授をしていました。
フィンランド人をこれほど幸せにしているものは何か――興味を持った私は、1000人以上のフィンランド人に日記をつけてくれるよう頼み、仕事、健康、人間関係、余暇など、あらゆる面で幸福度を毎日評価してもらうことにしました。
毎週彼らから日記が送られてくると目を通し、何か傾向はないか、必死に探しました。
しかし、どの角度から数字を見てもフィンランド人の何が特別なのかを説明できる明確なパターンは見つかりませんでした。それどころか、数週間後には、すべての尺度でゆっくりと、しかし確実に彼らの幸福度が下がっていったのです。
つまり、フィンランド人がどれだけ幸福なのかを考えてくり返し調査に答えれば答えるほど、幸福度が下がることが判明したのです。
というわけで、私からの最後の、そして最も重要なアドバイスは『幸福かどうかを真剣に考えるのはやめよう』です。」

幸福を基準に物事を考えない

 また、幸福を基準に物事を考えはじめると、そのものごと自体をあまり楽しめなくなるという。
ある研究で、研究者たちは被験者に「音楽を聴くと幸せになれると思いますか?」という質問をし、明るい曲を聴いてもらった。
音楽を聴いている間は楽しそうだった被験者も、その音楽をどれだけ楽しんだかを評価する段階になると平均して低い答えを出す結果に。この質問によって、自動的に幸福度を基準にして音楽を評価するようになったためだという。
同じく映画を観る人を対象に行われた同様の実験でも、映画を観ると幸福になるかもしれないと期待した人は、映画鑑賞をあまり好まなくなったそうだ。

人々が幸福になれないのは文明社会のせいだ - フロイト

 心理学の父フロイトは、1929年に「幸福は必ず各個人の最も原始的な欲求を満たすことで生じる」という本を出版しており、この「最も原始的な欲求」とは文明社会では不謹慎と見なされている欲求を指し、フロイトは「人々が幸福になれないのは文明社会のせいだ」という言葉を残している。

今は世界が半分になっちゃった - 養老孟司

「(都市に住む人が自然を排除しようとするのは)感覚を通して世界を受け入れないからです。意味を持った情報を通して世界を理解するんですね。だから意味のないもの、分からないものを徹底排除しようとするんですよ。自然に意味なんてないからね。都市の中の公園は、完全に意味を持った人工物です」(『世間とズレちゃうのはしょうがない』より)

 これは要するに、人間は頭(意識)と身体(視・聴・嗅・味・触の五つの感覚)で成り立っているが、現在の日本人の多くは国土の割には平地が少ないから、寄り集まって暮らすために頭(意識)で考えた人工物の都市化社会の中で暮らしていることがそうだ。

自然と生きる幸せ

養老】「頭の中で暮らすようになったんですね。すると、意識は身体が気に入らないんですよ。自分の方が偉いと思っているのに、必ず身体に復讐されるから。
だって、朝目が覚めるのもひとりでに覚めるのであって、意識的に覚めてるわけじゃないでしょう。意識的に覚めようとすると、目覚まし時計をかけないといけない。意識は自分が出てくることも引っ込むこともコントロールできないのに、起きている間は身体をコントロールしていると思っている、そこがそもそも間違いなんです。」

【養老】「たとえばコップで水を飲むときも、意識は飲みたいから飲んだと思っている。でも脳を測定すると、手の方がコップへ向かって先に動き出して、0.5秒くらい経ってから「水が飲みたい」という意識が発生しているんです。だから「理屈はあと追い」、根本的にそうなんですよ。でも意識が動かしていると思った方が有効に動けるので、誤解しているだけで。それが文明化であり進歩だと言っているんですね。」

 これは、寝ているときは「無意識」状態なのに身体は活動を続けているから我々は生きているのだが、意識はそれが気に食わないから、それなら寝ないで起きていようと考えれば、現代の多くの人に見られる薬を飲まないと眠られない症に陥るのだそうだ。
 つまり、我々は全てが意識して行動していると勘違いしている訳で、そもそも頭(意識)と身体(五感)とは別々に働いているのに、頭(意識)で考え出した人工物の中で暮らすうちに意識が全てを支配していると思い込んでしまったのが現代の日本人だと養老先生は指摘する。
 その証拠に、脳死判定後に臓器移植が可能なのは、別々に働いているからで、脳(意識)が全てを支配していれば脳死即身体の死になってしまう。

世界が半分になっちゃった

 自然と都市、感覚と理屈、身体と意識。前者がどんどん駆逐され、後者(意識)が支配したこの世の中を、養老先生は「世界が半分になっちゃった」と表現している。つまり、感覚が機能していないのだ。
 我々が暮らす都市化の生活場所は全て脳(意識)で考え出した人工物だから脳の中に住み着いていることになり、街中には人間が手を加えていない本来の自然は存在しないのだ。
 本来、我々人間も自然なのに、都市化の中で居心地が良いからと暮らすうちに自分の身体(五感)を使わないから”花鳥風月”感覚を失い自分の中の自然を排除してしまった(世界が半分になった)と養老先生は指摘する。だから逃げ場がなく、世界が狭い。対人関係で悩み不幸になる所以だ。
「脳が浸っている時間が長いものほど現実化するんです」とも養老先生は話していたが、我々の現実はまさに脳(意識)だけの世界で、「世界の半分」になっていると気づかなければならないのではと思う。
 そのもう半分(感覚)を取り戻すには、知識や情報を頭で得るのではなく、自然の中に全身を置いて五感で感じること。都市化の中で駆逐されたものをフル稼働し、自分自身もまた自然なのであると再確認することではないだろうか。
 特に、現代人は山林の自然どころか海まで避けてしまった。海水浴に行っても全身ウエットスーツで覆っているので感覚で花鳥風月を捉えられない。

 これまで書いた拙稿を読まれた方は、釈尊は対人関係に慈悲の心を説いたのであり、養老先生の説とは違うと思われた方もいるだろうが、そこが拙稿の重要なポイントで、釈尊在世は貨幣経済が始まり都市が始まったとはいえ、広大なインドの大地は森があちこちにあるから、現代の我々日本人の様に脳(意識)で考え出した人口物の世界で人々が暮らしていた訳ではない。
 だから、身体(五感)を使わない我々現代の日本人と違い、脳(意識)と身体(五感)をフル稼働していた中で、脳(意識)が勝手な行動を起こさせないように、釈尊は人としてどう生きるべきかをダルマ(人として守るべき理)として説いたことになる。
 つまり、現代の我々日本人はそれ以前の段階で、身体(感覚)が機能してないのだから、まずそれを取り戻さなければならないのが急務で日本人特有の病気な訳だ。
 ハワイにいたときに、現地の人の日本人観は、「日本人のイメージは病弱で病院通いと薬ばかり飲んでいる」とよく言われた。

幸せはとは”感じるもの”


 先日、NHKBS「世界ふれあい歩き」でニューヨークを取り挙げていた。
声をかけて来た人が案内したおすすめスポットは、人工物だらけのニューヨーク市街の一角に廃線跡がそのままにされている少しのスペースに人が集まっていた。
集まっている人たちが言うのは、「ここに来ると心が落ち着く」という。理由は、「廃線跡に手を入れてないから名も知らない草木が生えて来るんだ。観ているだけで心が落ち着くよ」と。
 私の住む東京も地面はアスファルトで覆われその下の土は呼吸出来ないだろう。街路樹は意識的に植えられ息苦しそうに立っている。アパート、マンション、戸建住宅までもが庭がないから文字通り人工物の中での生活だ。
 養老先生は、「日本人が幸せになるためには、都市から離れ、自然の中で「感覚」を取り戻す重要性」を訴え続けている。
 このことは、アウトドアを趣味とする人にとっても、共感するところが多いのではないだろうか。

その方々は自分の幸不幸をあまり口にすることはないと思われる。

 最近の若者の特徴として、同年代の世界的なアスリートたちについて、「彼らは特別だから」という若者が多い。昭和時代にはなかった言葉ではないだろうか。
「彼らは特別」これは差別思想で自分はそんな人にはなれないと卑下する心を脳に一所懸命摺り込んでいることになるから、この若者たちの将来は決し明るくない。
以前、そのことを言う若者に昭和のおじさんはお小言を言ったが彼に伝わったかどうかはわからない。

【動画】養老孟司さんに聞く、現代人が忘れかけている「自然と生きる幸せ」|養老孟司 × YAMAP代表 春山慶彦 対談

次回は、「ハワイには自然を意味することばがない」を書こうと考えている。