慈悲の徳 一切の生きとし生けるものを愛すべき

釈尊の教えは思想

 一切の生きとし生けるもの幸いであれ

 まず、「徳」とは何かを考えると、一般的には、「人徳」と言われるように、その人の身に着いた品性や価値だとすれば社会的経験や道徳的訓練などによって徳は備わるのだろう。
そして、その徳によって社会的に価値のある性質になり広く他に影響を及ぼす姿が本来の徳の意味だと考える。
ここでは、慈悲の徳(あるべき身に着ける姿)を確認していきたい。

一切の生きとし生けるものを愛すべき

 では、仏教で説く「慈悲の徳」について、中村先生は「原始仏典を読む」(p281)の中で、
「愛の純粋化されたものであるということが言えるでありましょう。人間における最も顕著な例は、と申しますと、母が子に対して抱く愛情のうちに認められると思われます。
母親が自分の子供を思う気持、それは純粋なものです。その気持がほかの人にも及ぼされるべきである、そう考えたのです。ですから母親が自分の身命を忘れて子を愛するのと同じ心根をもって万人を愛すべきである。いな、もしできれば一切の生きとし生けるものを愛すべきであるということを強調しております。」と講義されている。

 また、講義の中で中村先生は、『スッタニパータ』の中の「慈しみ」と名づける一節を紹介されているので、ここでその全文を引用掲載する。

慈しみ「スッタニパータ」

― 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。
●能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上ることのない者であらねばならぬ。
足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少なく、生活もまた簡素であり諾々の感官が静まり、
聡明で高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることが他の識者の非難を受けるような下劣な行な いを決してしてはならない。
一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものも見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生れたものでも、これから生れようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならい。
悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
●あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。また全世界に対して無量の慈しみの意を起すべし。
●上に、下に、 また横に、障害なく恨みなく敵意なき(慈しみを行なうべし)立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、限らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいを確っかりとたもて。 

この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。
諸々の邪まな見解にとらわれず、戒めを保ち見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。― (文庫本 『ブッダのことば』中村元著p143-152)

 このブッダのことばは、南アジア諸国では特に大切にされ、この一節を唱えると障害から身を護ってくれると考えられているとのこと。

 中村先生は、このスッタニパータの中には、「父母親族が自分にしてくれる以上のことを、もろ人のためになそうと心がけねばならぬということも言っております。」と講義されているが、現代社会において、この心がけを出来る人が、どれだけいるのだろうか、と以前の私なら考えただろうが、この三人の巨匠たちに学ぶうちに、それはあくまで私の考えであって、それを当たり前に実践されている方も実はたくさんいるのかも知れないと今は思う様になった。

無傷害

 また、中村先生の講義では、
「世の他人は自分を敵と見なし、あるいは自分の悪口を言うかもしれない。けれども 自分のほうからは万人を友と見なす。もし悪口を自分に対して言う人があるならば、静かに考える。ああ、なるほど、こういう因縁でもって、あの人はああいうことを言うのだ、ああいう仕打ちを私に対してするのだ。そう思って因縁の因果関係をずっとたどって分析して解釈しますと、向うの人個人に対する憎しみの気持というものはだんだん消えていくわけです。無傷害を楽しむ。(中略)

 この『無傷害』ということは、 ことばで他人を傷つけない、他人と争わない、ということにもなります。(中略)
 『無傷害』ということは、仏教で特に強調することですが、仏教と同時代に興りましたジャイナ教でも、生きとし生けるものをあわれめ、人に害を加えてはならない、と言うのです。

この思想は今日にずっと受け継がれております。これがインドでは現実に生きているのです。
 私たち日本人の間にも、やはり仏教を通じて生きものをあわれむ、 殺生をきらうという思想は生きております。けれどもインドではまた別の形でもっと強く生きております。」 (原始仏典を読むp284-285中村元著)

牛を殺さない

 続いて、中村先生はとても興味深いことを講義されている。
「たとえばインド人はご承知のように牛を大事にします。かれらは牛を決して殺しません。牡牛は耕作に使い、牝牛は乳をしぼるために使います。
 ところが年をとると役に立たなくなる。これがよその国でしたらそこでバッサリやってしまうわけです。しかし、インドではそれはやらない。それでは役に立たなくなった牛はどうするかと申しますと、インドにはガンジス河のほとりに牛のサナトリウム (療養所)ができておりまして、役に立たなくなった牛はそこで余生を送る。牛が全く自由を享受しております。

 インドの町には牛が間歩しています。私がデリーの町を歩いておりましたら、 デリーの繁華街で、人の大勢いるところですが、だれかうしろから私の肩をぐっと押したものがいる。だれだろうと思ってひょいとうしろを見ると、牛のお尻なんです。牛が悠々と歩いておりまして牛権を主張しているのです。」(原始仏典を読む、p285中村元著)

鳥の病院

 「それから鳥をかわいがります。デリーの中心地にレッド・テンプル、赤い寺というジャイナ教のお寺があります。そこへ私、お参りしたことがありますが、そこの付属 の建物に小鳥の病院があるのです。中に入りますと、小鳥が部屋中いっぱいいるのです。小鳥の口ばしが傷つきますと、その病院へ入れて口ばしの外科手術をやるのです。 そして傷が治ると退院させるのです。また小島が腹をこわすと病院に入れまして、薬をあてがい、治るとまた退院させる。そういう入院中の小島がいっぱいいるのです。(中略)
とにかくそのくらいにインドでは、すべてのインド人がそうだというわけではありませんが、生きものを大事にするという風習があります。その理想が無傷害です。さらに現代の問題として考えるとき、無傷害ということは、重要な意義をもってきます。
 -殺そうと争闘する人々を見よ。武器を執って打とうとしたことから恐怖が生じたのである。

               (文庫本 『ブッダのことば』P935、中村元著)
 戦争がどうして起るのか、ということを思い出させるではないでしょうか。」(原始仏典を読むp286/中村元著)

 この鳥の病院を訪れた模様は、YouTube動画にいくつかアップされており視ることが出来るが、そこで、中村先生は面白いエピソードを紹介されている。
「世界中からこの病院を見学に訪れるんですが、ある旅行者が鳥を治療してまた空へ放てば町中鳥だらけになるだろう、と言った人がいるそうです。それに対して、鳥の医者はあの日本を見ろよ。あんな狭いところに一億人以上住んでいるんだから心配ない。」と言ったと語ってくれた。

人間も動物も同じ

「インド人の考え方では、人間とけだものの区別がないのです。
たとえば鹿がやってくる、鹿に向って餌をやれば、鹿は 喜んでなついてくる。反対に、杖をもっておどかせば鹿は逃げていく。人間だって同 じではないかというわけです。そういう説き方が、インド人の場合には顕著なのです。」(原始仏典を読むp197-基本となるなる教え-法の概念/中村元著)

 このことは、植木先生も自著「仏教、本当の教え」(p183-日中印の比較文化)で語っている。
「インドにおいては、動物と人間は大して変わりないものと見られている。

インドへ行ったとき、田舎に行って人間の子どもと猿が一緒に水遊びしている場面を見たことがある。
また、 日本で言えば銀座にあたるような、ニューデリーの繁華街に行ったときも、店の前に猿がチョコンと座っていた。筆者もそこにチョコンと座って、並んで”記念撮影”をさせていただいたが、ぜんぜん違和感がない。
動物と人間は、大して変わりないと思われている。だから、 動物も解脱は可能だと考えられていた。

 この話をX(旧ツィッター)で、植木先生にお伝えすると、すぐに植木先生から当時の画像をアップしていただいたのでお借りし掲載する。詳しくは、植木先生の著書「人間主義者、ブッダに学ぶ」で書かれており、インドを旅した気持ちになるで、ぜひ、読んでもらいたい

2022年6月8日にX(旧Twitter)で投稿された動画で。インドでケガをした親子のサルが、ここに来れば治してくれると病院を訪れて治療を受けて帰っていきます。
投稿者にお断りを入れたのでご紹介する。