㉞ 意識も脳構造の単なる機能
これまで、釈尊の教えを養老孟司先生の解説から読み解いてきたが、「意識」について、もう少しわかりやすく説明して欲しいとの声をいただいたので、「意識」についておさらいを書きたい。

意識とは何か?
辞書を見ると、「自分が現在何をやっているか、今はどんな状況なのかなどが自分でわかる、心の働き。」
「起きている状態にあること」または「自分の今ある状態や、周囲の状況などを認識できている状態のこと」とある。だから、寝ている間は「無意識」になる。
養老孟司先生は、
「目や耳などを通じて受ける感覚に対して、そこに『同じもの』を見つけ、意味に変換し、秩序を与えるのが『意識』。 動物は感覚を使って生き、人間の活動の大部分は『意識』に基づく。」と唯脳論で解説している。
これに対して、外部からの刺激を「目・耳・鼻・舌・身体」などでとらえられたものが、感覚(五感)になる。
ここまでを読まれてもピンとこないかも知れないので、私なりに簡単に説明すると、要するに我々人間を含めた動物の身体には、「筋力、筋持久力、関節可動域、体力、柔軟性、バランス感覚」などの身体機能と「記憶、注意、認知、感情」などの精神機能がある。
身体の各部位には心臓とか胃腸とか筋肉とかの構造が機能(はたらき)している。
「意識」も脳という構造の機能の一つだよ、と養老先生は解説している。
だから、日頃、我々が肝機能とか心肺機能、循環機能、運動機能などと耳にする様に、「意識」も脳という構造の機能に過ぎず、特別なものではないと言っている。
意識は単なる機能

では、その「意識」はどこにあるのかと言えば、構造は形があるので目に見えるが、心肺、循環、運動などの機能は目に見えないが確かに存在する様に、「意識」も存在している。
特に、脳については拙稿ブログでも「アートは解毒剤」「脳化社会とはあなた」で養老先生の解説を書いたが、脳みその原理は神経細胞がつながっているだけで、回路として機能するために、0と1の仕事をしているコンピューターと同じだと言っており、その機能が意識になる。
だから、意識は神が与えたものでもなんでもなく、機能として存在しているだけで、意識を心だと理解してもいいと養老先生は解説している。
世間一般のスピリチュアルセミナーなどでは、この意識について、顕在意識や潜在意識、宇宙意識などを説いているが、確認のしようのない機能について、さもあるような説明するから神秘主義に陥る。
また、死んだら意識が魂や霊魂の様に体から抜け出して彷徨い、また次の体に入り生まれて来るという思想は、要するに我々の意識が死にたくないと思っているから、そう思い込みたいだけのことだ。

言葉の世界にうずもれる危険
白板に黒マーカーで「白」と書くと、目にははっきりと黒色が入っているが、ヒトはそれを無視して白という文字として読む。これは感覚で捉えたものを意識が調整し白と読むからだ。
「裸の王様」という寓話があるが、子供は感覚が優先しがちなので、王様は裸だと素直に言ったという物語で、この寓話を引用し、「言葉の世界にうずもれると、日常の素直な感覚が失われがちになることに注意しよう」と養老先生は指摘している。

このように、我々は意識がヒトの全てを動かしていると勘違いしがちだが、あくまでの脳の機能なので、脳が先に動いて意識が働き、そして行動をおこしているだけのことで、「意識」とは単なる脳という構造に対応した機能に過ぎないと理解されたい。
例えば、身体のどこかに不調があれば、運動機能や各機能が円滑に働かないことを想像されるとわかりやすのではないだろうか。
脳構造も壊れると、例えば右手で靴下を履こうとして左手で必死に脱がそうとする行為があると言われる。
だから、意識も脳を正常な状態に保たせてないとおかしな意識が働くことになる。
世界中の殺人犯の脳を調べた医者がいるそうで、結論は脳構造に同じ傾向が見られた言う。
脳は思い込んだ瞬間に騙される

養老先生は、「思い込んだ瞬間に脳は騙される」と言っているが、認識が他とちよっと違う人がいればその人の脳がそう思い込んでいることになる。
だから、釈尊は常に脳を善の方に騙すクセ付け(善の習慣化)をすることがブッダになる(成仏=人格の完成)道であるとして、そのために「人としてたもつべき道理」を様々な倫理で説いた。
決して、神秘主義的な呪術信仰を説いたものではない。
「意識」がコントロールしているもの
【養老】「私たちが住む都会は、人間のつくったもので溢れかえっています。人間は意味のあるものをつくり、無意味なものを次から次へと排除していきます。
一方、山などの自然に足を踏み入れると石や雑草が沢山ありますが、これらにはまったく意味がありません。もしも石ころがゴロゴロ都会に転がっていたら、誰かが片付けるでしょう。
邪魔だと自治体に文句をいう人がいるかもしれない。無意味なものを徹底的に排除し、意味のあるものだけでつくり上げてきた世界が、都会なのです。
私は〝意識〟でつくった社会を『脳化社会』と呼んでいます。人間が持っている〝感覚〟を遮断し、脳の中で図面を引いてつくったものやシステムのみを具現化させた世界です。
いまや驚くべきことに世界の半分以上の人が都会に住んでいます。なぜかというと、自然は危険だからみんな意識がつくり出した都会の中に住みたがるんです。
意識の世界に住みたがるのは、危険な自然を意識がコントロールできると思っているからですが、大きな勘違いです。

みんなは『自分が思ったから、行動している』と考えていますが、実は意識とは後付けです。
考えてみれば、当たり前のこと。例えば、意識的に寝ることができますか。静かに布団に入っていると独りでに寝てしまうでしょ。
起きる時も同じです。目覚ましのように、外から刺激を加えてもらわないと起きられない。さあ今から起きようと思って覚めているわけではありませんよね。
つまり意識は自主性がなく、主体性を持っていない。なのに、起きている間は、意識が主体だと信じ込んでいる。完全に錯覚ですね。身体を、即ち自然を、意識がコントロールなんてできないということです。」(養老孟司インタビュー「意識と感覚」より一部引用)
意味のないものに触れる大切さ

そして、都市化が進む社会で暮らすと感覚入力を一定に限ってしまい、意味しか扱わず、意識の世界(頭で考えた世界)に住み着いているので、ほとんど病気に近づいているという。
「そのしっぺ返しで子どもが減っているのでは」と養老先生は指摘する。
「意識の中に住み着いてしまったような人間に子どもは、経済的でも効率的でも合理的でもないもの、邪魔にさえ映るのでしょう。高齢者も邪魔になっています。」
その社会の息苦しさの暮らしに気付いた人だけが何とかバランスをとろうとしているのだという。
【養老】「団塊世代はしょっちゅう山に行くし、若い人だって森へ出かければ癒やされると言う。全部そうですよ。生きるために必要なんです。みんながそれを理解するだけで大きな違いを生むと思います」