生きるとは やっぱりお釈迦様は偉い。養老孟司

釈尊の教えは思想

㉟ 人はなぜ生きるのか?

人それぞれだが

 人はなぜ生きるか。こう訊かれると、すぐにいいたくなる。そりゃ、人によって違うでしょうが。
お金のため、名誉のため、権力のため。人生の動機はこれに尽きる。そう考える人もある。

 それなら男女はどうなる、家族はどうなる。好きな女のために生きる。もうだれも読まないだろうが、井上靖の「射程」はそういう男を描いている。若いころ、この本にすっかり釣り込まれて読んだから、電車で降りるはずの駅を乗り越した。

 家族のためというなら、それは生きるためというより、食うため、食わせるためじゃないか。食うのは生きるためで、それなら生きるのは、食うためではない。
そんなこというけど、あたしゃ貧乏人だし、社会的地位もない。金と名誉と権力には縁がない。自分ではそう思っている人も、じつは金・名誉・権力の例外ではない。そういう意見もある。貧乏人の子だくさんとは、そのことだという。それを説明する。

人間の欲は権力欲

 突き詰めれば、人間の欲は権力欲である。気に入ろうが、気に入るまいが、とりあえずここではそう考えることにする。金があれば、それなりに「思うようにできる」。
名誉があれば、それなりに人を「思うようにできる」。ともあれ他人が自分の意見に耳を傾けてくれるに違いないからである。権力があれば、むろんのことである。

貧乏人の子沢山

 貧乏人はどうか。どれもない。ところが一つ、残された手段がある。子どもである。子どもにとっては、親は絶対者に近い。
 父親が変人で、子ども嫌いだったため、赤ん坊のときから中学生の年齢になるまで、一部屋に閉じ込められ、縛られていた子どもがあった。その子はそれでも後に「母が恋しい」と書いた。
すべての権力に縁がないなら、人は子どもをつくる。だから貧乏人の子だくさんなのだ、と。

私は釈迦が好きだ

 その欲、権力の欲を去れと説いたはずの人を私は一人だけ、知っているような気がする。釈迦である。だから私は釈迦が好きなのである。
そりゃ誤解だといわれるかもしれない。そうかもしれないが、ともかくそうだと思うことにしている。

 べつに私は仏教徒ではない。でも外国の書類に宗教を書くときは、仏教徒と書く。
そう書いたところで、信じる教義を訊かれることはない。
でも仮に訊かれたとしたら、「欲を去れ」だという。そう聞きましたという。如是我聞である。

欲を去れ

 欲を去ったら、人生の目的がないじゃないか。そのとおりである。だからといって、欲をかいていい。そういう結論にはならない。
この「欲をかく」は、欲を欠くではない。徹底的に欲望するという俗語である。
 他方、欲を欠いたら、たしかに人生は灰色である。しかし欲は中庸でよろしい。理屈が中庸なのではない。中庸なのは欲である。

 理屈を中庸にすると、理屈が役に立たない。このあたりは高級な議論だから、短くては納得しない人もいるかもしれない。でも説明が面倒くさい。

中庸な生き方

 人はなにごとであれ、思うようにしようとする。それは人の癖だから、どうしようもない。そういうものだと心得ておくしかない。それを説くのが仏教だと、私は勝手に信じている。他の宗教はそれをいわない。いわないと思う。むしろ徹底的にやれという。宗教を信じること自体についても徹底を要求する。

容赦がない

 自爆テロを見ても、それに反対してテロ撲滅に動く人を見ても、そう思う。相手を殺しても、逆に自分が死んでも、ともかく「思うように」しようとする。もう勘弁してよと、体力のなくなってきた老人は思うが、容赦がない。
 容赦という言葉は、西洋語やアラビア語になるんだろうか。魯迅だって、「水に落ちた犬を打て」と書いていたはずである。

「世界はイヤなところだと思え」。そう書いていたのは関川夏央氏である。こういう点では、私もそう思う。

 いまでは世界は人間でできているというしかない。その人間の悪いところを無限に拡大するようなことは、勘弁してほしいと思う。でもそうはいかないといいつつ、欲望は無限に増大するように見える。やっぱりお釈迦様は偉い。

文春オンライン(2023/11/19)  『生きるとはどういうことか』(筑摩書房)より一部抜粋 を掲載した。

「人が生きる理由」 そんなもの行きがかりで生きているだけだ

煩悩と執着があるから苦しむ

 NHKこころの時代「ブッダの人と思想・不死の門は開かれた」の中で、中村元先生は次の様に講義されている。
【中村】「我々が今問題にしているのは、人生が思うままにならないということですね。これを苦しみと言ってもいいでしょう。
 思うままにならないわけですが、それは何故かというと、執着があるからだと。それに対してどうしたらいいか。
 我々は、それを元の煩悩とか執着というものを制すればいい。コントロールして迷わされなくなれば、自ずからその働きはなくなるわけでございますね。
 つまり元に煩悩とか執着とかがある。それに基づいて苦しみが起こる。だから元のものを制すれば苦しみもなくなるわけですね。
 ちょうど『これがある時、あれがある。これが無いとき、あれが無い』ということと同じことでしょう。こういう具合にして釈尊は、元の原因を、人間の迷いがあるからだとして、その原因を突き止めようとされた。」

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