仏教誕生-世の中の変化に対応した新思想

釈尊の教えは思想

④ 金がモノを言う世の中に新思想(従来のアンチ思想)が次々と誕生

 洞窟で暮らし他の動植物たちと同じく自然界の法則の下で暮らして来た人類も2500年前に脳で創造した貨幣を誕生させてからは、脳で創造する世界が全てであり金があればなんでも支配できると考えたようだが自然界だけは支配できないから邪魔だと考え排除する道を歩むことになる。


 この様に金がモノを言う社会的な変化が起こると新しい思想も現れ、従来の観念からみたらとんでもないことを主張する思想家もたくさん現れたようだ。
 例えば、「快楽主義」であるとか、「道徳否定主義」であるとか、「運命論」であるとか、あるいは反対に「世の中は偶然であまり考える必要はないんだ」ということを言い出す人も出て来たと中村元先生は、NHKこころの時代/ブッダの人と思想(われ一切世間に違わず)で講義されている。

 そうなると、当時の人々は拠り所を失って勝手なことを主張する新しい思想家たちの説に惑わされてしまうことになるが、これは現代も同じで、世の中が乱れるほど各人が様々な主義主張を言い合っている。

 しかし、真理はひとつであって、それらは所詮、嗜好品と同じくいくら言い合ってもどちらかが歩み寄らない限り平行線のままだろう。だから、戦争は終わらないわけだ

拠り所を失った人々の前に釈尊が現れる

 「拠り所を失った、そういう社会情勢の中に釈尊が現れ出て、それで人間の生きるべき道を新たに説き示したことで人々は新しい拠り所を得ることになった。これが仏教の現れた社会的基盤でございます。」(NHKこころの時代/ブッダの人と思想:われ一切世間に違わず)

 この様な新しい変化の激しい社会の中で釈尊が説いた教え、仏教の一番基本な考え方とは何かについて、中村先生は、
 「当時の古い社会的秩序に対して、新しいものを説いたわけです。それまでの階位的秩序あるいは階位制度というものは、もうこれから顧みるに足らない。むしろ人間が何をなすか。その人の内なる人格というものが一番大事である。だから立派な人間となって暮らすように努めなさいと。これは階位の差を超えて、釈尊初め原始仏教の人々の説いたところであります。」(NHKこころの時代/ブッダの人と思想:われ一切世間に違わず)

新しい人間関係 慈しみ

 これはつまり、それまでの村社会での血族関係をもとにした人間の繋がりではなくて、様々なところから集まってきて仕事や生活をするのだから、人間がお互いにお互いを認め合う、そういう人間関係をベースにしていかなければならないということだが、現代の我々からすれば理屈とすれば至極当たり前ともとれるが、現実的に周りに目をやると果たして見ず知らずの他人なんか信用ならんから思いやりをもって接するなんてトンデモナイと思っているのではないだろうか。
これこそ現代社会が忘れてしまっている教えかもしれない。

 「人間の特性と申しますかね、あるいは道徳的な品性と申しますか、更にそれを実際に行うことですね。そういう事柄がものをいうようになりました。だから社会的意義と申しますか、あるいは宗教(おおもとの教え)の社会性という点から申しますと、非常に大きな転換がなされたわけですね。
平等ということを仏教では説いたわけです。人間は人間である限り、みな平等だと古い時代の階位制度を否定しました。
 つまり人間は、要するにみんな平等なんだから、平等ということを大切にしてお互いが認め合わなければいけない。そこには当然友情とか、友愛とか、そういう心の働きというか、その働きかけが大切なんだということだとです。」(同)

慈悲とは温かい心掛け。新しい心

【中村】「これまでの社会的な結び付きをただ破壊するというんじゃなくて、今度新しい社会では、新たにいろんな人間関係が出てきますから、その基本原理となるものは、それは従来とは違ったものを考えたわけです。それは我々日本人に知られている言葉で『慈悲』ですね。
仏教が、『慈悲』を説くということは我々は存じてますが、人間の徳性のうちで何がもとかというと、『慈悲』というんですね。
『慈悲』の『慈(じ)』というのは、『慈(いつく)しみ』という意味ですね。それから『悲(ひ)』というのは、『憐(あわ)れみ、同情』ということです。この元の言葉で申しますと、『慈悲』の『慈』は、インドの言葉で『マイトリー』と言い、『友人』友の『ミトラ』にもとづいて作られ漢訳語で「慈悲」になった。
『慈悲』とは、要するに『温かい心掛け。新しい心』ということです。
 つまりいろいろな人と交渉をもつわけですが、相手の身になって思いやる、ということですね。これがまったく新しい教えとして登場しました。
当時の人たちも、これからの社会は人々に対する温かい心をもって対しなければならないと気づいたから、それを説いた釈尊のもとへみんなが集まって来たわけです。」(同)

 貨幣が誕生し貨幣経済が進展するとともに釈尊の教えを求め広がったことについて、中村元先生は次のように講義されている。「NHKこころの時代 ブッダの人と思想・善き友とともに/中村元講義」

【中村】「新しい実業家たちにとっては、等価交換ということが実現しなければいけません。値段の同じものは同じ値段で交換されなければいけない。それカーストが違えば、高く売るとか、安くするとかということがあったら、公平な商業というものは成り立ちません。
だから仏教の理想というものは、ちょうど当時の新興商工業者にピタッと合うところがあった。それは自由平等の精神だと思います、今日的な表現ですけどね。
『平等』というのは、仏教の言葉ですが、『自由』というのは、妨げがないことでしょう。だから仏典では『無礙(むげ)』とか、いろいろな言葉がございますが、つまり新興商工業者が活動するためには、地域による妨げがあっちゃいけないわけですね。そして如何なるものでも、価格が同じものは等しい価格で交換される、ということでなければ、商業は成り立たないわけでありますね。相手を見て定価を変えるというようなことでは具合も悪い。」

人間の脳(意識)は、「同じ」=「相手の立場に立つ」

 要するに、人間の脳(意識)は、「同じ」=「相手の立場に立つ」を良くも悪くも都合よく使って生きており、いくら交換する意識を持った人間でも自分に都合よく騙しの交換をしては商工業は成り立たたない。
 当時既に騙しの商売もあったのだろう。釈尊はこれを「無明(むみょう)」と説いた。無明とは、煩悩(ぼんのう)にとらわれ、仏法の根本が理解できない状態。現代語では「バカ」だということになるか。

 現代人が忘れかけていることであり、また金がモノを言う現代社会では思い出したくない本心ではないだろうか。(参考:30.5歳に起こる「立場の交換」)