縁起 – 網の目の如く互いに結ばれている

釈尊の教えは思想

⑩ 縁起とは網の目の如く互いに結ばれていること

 前稿「土から生まれ土に還る- なぜ他人を愛すべきか」で、中村先生の解説を通し、「お互いに目に見えない因果の網によってしっかりと結び合っている、いわば運命の共同があるわけです。」と学んだ。
仏教では、互いに結ばれていることを「空」とか「縁起」ということばで言い表わしている。
『空』というのは空っぽと言う意味ではなく、孤立した実体ではないということだとされる。
お互いに結ばれているから、お互いに限定し合っている。

縁起とは 縁に従い、由って起っている

 中村元先生は、『縁起』について次の様に解説されている。
「『縁起』というのは由(よ)って起っているという意味です。
よく縁起が悪いとかなんとかいうことばが日常使われていますが、それは転化した用法でありまして、『縁に従い、由って起っている』という意味です。」(中村元著 原始仏典を読むp292)

日本では「縁起」の意味を履き違えている

 日本人は、縁起が良いとか悪いとか、縁があるとかないとか使うことがあるが、これは仏教用語を都合よく解釈した日本語で本来の意味ではない。
あとで、書く予定たが、仏教用語から転化し似非となった言葉が日本語にはたくさんあり、それが常用されていることを考えると、いかに日本人は仏教を正しく理解しようとして来なかったかがわかり、その誤った解釈は都合良く使われ、本来は思想である仏教もいわゆる「おすがり信仰」となってしまったのだと考える。
本来の意味は、縁(つながり)に基づき、現象が現れる、ということだろう。

縁起とつまりは、ありとあらゆるもの(万物)がお互いに相い結び合って成り立っている因縁、因果関係にあると理解した。


 「因果応報」「自業自得」などと言われるが、これらは現代では悪い意味で使われている

本来の意味は全てが織物の糸の如く編み目で結び合っているので行いの結果の意味である。
現代用語で言うとネットワークであり、我々はその端末みたいなものだと考えればわかりやすい。
それぞれの端末(我々)が操作した記録(ログ)は残るわけで、それが相手にも自分にも影響を及ぼしている。
当然、自分の報いが相手に影響を与えるとともにもちろん自分にも還ってくるという考えが縁起の理法つまり道理にかなった法則ということになる。

縁起の理法を覚れば争いは無意味

続けて、中村先生は
「この理法を考えますと、人と人とが争うことが無意味だということに気づいてくるのです。
競争するということはお互いに刺激を与えるからよいことですが、その競争は、それを媒介として相互が力を得る、相互に助けられるという、そういう形においてなされねばなりません。そう思いますと心が広々としてきます。仏教ではこの原則を現実の生活に生かそうとするのです。」(中村元著 原始仏典を読むp292)

 
 釈尊は、最先端科学を用いずに瞑想だけで、この世界は全て繋がっていると覚ったことに驚きを禁じ得ない。一見、単純に簡単そうで当たり前のことを言っている様に受け取ってしまえばそれまでだが、このことを自分のものとして理解出来ないのもまた現代人だと考える。
だから、日頃から自分さえ良ければ的な行動を起こしている人も目に付くし、たとえ日頃冷静沈着な人でもいざ何かあればヒステリックになって我を失うのではないだろうか。
これは、後で書く予定の養老孟司先生の思想「唯脳論」で解説されている。
人間の脳は思い込んだ瞬間に騙されるのだそうだ。だから、瞬時に善人にも悪人にもなるわけで、そして様々な縁に紛動(心が紛れて動かされる)され、本来の自分を見失うのだという。

 中国の僧、天台智顗はこの心の働きを「一念三千」(いちねんさんぜん)として創案したとされる。
一念三千とは、天台宗の観法であり、また根本教理とされる。一念の心(我々の心)に三千の諸法を具えることを観(かん)ずること。「諸法」とは、すべてのものごと、あらゆる現象・はたらきとされ、この一念(心)に三千の諸法(あらゆる現象)が具わっているから我々の心の持ちようでいかようにも世界は変わるということを説いた。
 

 オリバー・ナポレオン・ヒル(1883年10月26日 – 1970年11月8日)は、アメリカ合衆国の自己啓発作家。成功哲学の提唱者の第一人者のひとりであり、ベストセラー『思考は現実化する』の著者で有名。
心に強く願うことは、必ず実現する!」と主張したナポレオン・ヒルの成功の定義とは、自分が価値があると認めた目標を達成すること。社会の正義や他人を思いやる視点を持つこと。だと残している。
ナポレオンヒルは西洋人思想家ではあるが、彼の様々な体験は仏教で説く『縁起の理法』から『慈しみ』を覚ったのかも知れない。