釈尊は愛に差別がないと説いた

釈尊の教えは思想

⑬ 愛が純粋であればそれ自身において尊い、「愛に差別がない」

 前回は人生の幸福とは何であるか?について、「スッタニパータ」という釈尊の教えを集めた原始仏典の中から「こよなき幸せ」として書かれた根本の原則を見て来た。
 では、その根本原則が具体的な人間生活でどう生かされるべきかを中村元先生の原始仏典の解説をもとに見ていきたい。
 中村先生は、「いかなる人間関係においても、慈悲、同情、共鳴、共感の精神でもって進むべきであるが、その現れ方はいろいろと違う」と解説されている。

愛に差別がない

まず人間関係で一番身近なものは家庭生活だが、仏教ではどう説いているのか?
とても難しく説いているのではと思ったら想像とは裏腹になるほどと思うことばかりが書かれてい
ので紹介したい。

婦人というものを釈尊はどう見ていたか

「婦女の求めるところは男性であり、心を向けるところは装飾品・化粧品であり、よりどころは子どもであり、執着するところは夫を独占することであり、究極の目標は支配権である。」(パーリ原典協会本 『アングッタラ・ニカーヤ』第3卷p163)」

 これを読んで思わず笑ってしまった。
2500年前も現代と変わらないと世の男性諸氏は思われたのではないだろうか。
釈尊もそのことをありのまま見ていたようだ。

 中村元先生は、「愛の典型的なものは愛し合っている男女の間の愛情であると一般に考えられておりますが、熱烈に愛し合っている二人の間では全面的な自己帰投と申しますか、自分を投げ出すということが行なわれております。これが純粋の愛であると認められております。原始仏教でも一般世人に対しては恋愛の純粋性を説いておりました。」と解説されている。(中村元/原始仏典を読むp303)

誰もが平等であるから愛に差別はない

愛情ある者の愛する人はだれであろうとも、たといチャンダーラの娘であろうとも、すべての人は平等である。愛に差別なし。(『ジャータカ』第6卷p641)

 「チャンダータ」というのは古代インドのカースト社会で賤民(せんみん)や施陀羅(せんだら)と呼ばれ、インドにおける社会階級制度上よりも更に下の階級の人のことで、社会的地位が極端に低く、蔑的待遇を受けて生活も悲惨を極めていたと言われる。
 つまり、そのようなチャンダーラでもいかなる階級の人であっても、愛が純粋であればそれ自身において尊い、「愛に差別がない」と言っていることに注目したい。
 当時は世界中で人間には階級があるという差別思想が当たり前の中で、誰もが驚く「平等」という革新的な考えを釈尊によって世界ではじめて説かれた。

 ちなみに、イギリスによる植民地政策が100年続いたインドは1947年に独立を果たし、1950年には憲法を制定し、その中にカーストに基づく差別の禁止と、不可触民制の廃止が規定されたが、憲法の規定は「差別をなくす」ことが目的で、カースト制度そのものは現在も残っている。

 釈尊はカースト制を否定し平等主義を説いたが、多民族国家ゆえの差別が根底にあり徹底的に実現することが出来なかった様だ。
さらに攻め込んでいたイスラム教徒により1203年には最後の寺院が攻撃されインド仏教は壊滅する。
関連記事として、拙稿「10.同じ「イコール(=)」は平等か?」も合わせてお読みいただければ幸いである。

カースト制度は、職業・結婚・食事などヒンドゥー教徒の生活全体を規制する社会制度であり、人は生まれながらにして職業と結びついた社会集団(ジャーティ)の一員として生きていくことが求められる。

次回は戒めについて書きたい。