占い、迷信を否定した釈尊

釈尊の教えは思想

㊺ 仏教、本当の教え

迷信・ドグマの排除

 前稿「魂」の感想を有難くも、アップ早々に何人かの方からいただいた。
その方々に、次は今記事の「占い、迷信を否定した釈尊」を予定している旨お伝えすると、お一人から「釈尊が占いを否定していたとは知りませんでした。」という今回の記事の核心たるご返事をいただいた。
 いまの日本仏教を見ていると迷信的なことばかりだから、そう思われるのも無理はないでしょう。
私が師と仰ぐ、植木雅俊先生の著書「仏教、本当の教え」(中公新書)から引用する形で、今回の記事を書いて行きたい

脳は思い込んだ瞬間に騙される

【植木】「ある大学教授の自宅を訪れた際、その奥様から次のようなことをお聞きした。
四国の霊験あらたかなことで有名なあるお寺に、ご主人と一緒に行かれて、そこの僧侶から『ご主人の戸籍上の名前を紙に書いてください』と言われて書いた。
その教授は戸籍上の名前と、日ごろ使っている名前を使い分けておられた。

例えば、石ノ森章太郎(1938-98)という漫画家がいるが、筆者の少年時代には『ノ』が入っていなかったけれども、のちに入った。
それと同じように、戸籍上はカタカナが入っている苗字だけれども。日ごろは入れないで用いておられた。
その僧侶は、戸籍上の名前を書かせたその紙を受け取ると、目の前で丸めて燃やしたそうだ。そして、『あなたの名前には、カタカナのなんとかが入るでしょう』と言ったというのだ。
それを聞いて、その教授夫妻は舞い上がってしまって、これは凄いと思ってしまわれたようだ。

しかも、ジーッとその教授の顔を見つめて、僧侶が『あなたには早死にの相がある。私が八〇歳まで生きられる祈りをやってあげよう』というのでやってもらった。すると何百万円か請求され、払ったというのだ。


 この話をされて、『植木さん、これをどう思われますか』と聞かれたので、『ああ、それは 詐欺的な行為でしょう』と答えた。

僧侶が戸籍上の名前を当てたということだが、むろんそれは戸籍に書かれているものである。どこかに書かれているものを当てるのは難しいことではない。前もって調べれば分かることである。

占い師には、きのうの晩御飯を当てさせろ

 そこで私は次のような話をした。
『私は、誰々の生まれ変わりだ』と言う人もいる。しかし、その人の語っていることは、歴史の本などに書かれていることである。
『もし、だれかの生まれ変わりであるならば、本に書かれていないことも喋れるはずではないですか。その人の言われることが、本当に当たるのかどうかを知りたければ。『きのうの晩御飯、私が何を食べたか当ててくださいと言ってみてください。これを当てたら信じていいです。私は 最近、きのう晩御飯に何を食べたか自分でも思い出せないくらいですか』いう話をした。
 帰ろうとすると、奥様は真面目な顔で「植木さん、きょうのお代はいくらですか?」と言われた。

今から考えると一万円ぐらいもらっておけばよかったかな。それは冗談だが、「いりません」と言って帰ってきた。身の回りの仏教を見ていると、こういうレベルのものが結構目につく。」(仏教、本当の教えp30-39)

脳は思い込んだ瞬間に騙される

 これを読んで大学で教鞭をとる立場ですら、簡単に騙されて何百万円も払うという現実。
今日も占い師に騙され大金を取られるニュースが流れていた。まさに養老先生の言う「脳は思い込んだ瞬間に騙される」そのものだと感じる。

日本の仏教は、シャーマニズム

 中村元先生は、「日本の仏教は、シャーマニズムの域をほとんど出ていない」(日本人の思惟方法p455)と言っている。

安心を施すのが仏教

 釈尊は、人の弱みに付け込むようなことを決して認めなかった。人を脅迫したり、 呪詛したりすることにも批判的であった、とされる。

頭破作七分 頭が七つに裂けると脅す

 釈尊の教えをまとめた最も古いと言われる仏典「スッタニパータ」には、歯は汚れ、頭は塵だらけのバラモンが、バーヴァリという人のところへやって来て、五百金を乞うという場面がある。
すべてを施した後だったので、バーヴァリは施しができないことを詫びた。
 すると、そのバラモンは、「〔五百金を〕乞うている私に、もしもお前が施与しないのであれば、〔今日から〕七日目にお前の頭は七つに裂けてしまえ!」(p191)と、呪詛の作法を行なって脅迫した。
バーヴァリは、食べ物も喉を通らないほどに憂い、苦しみ抜き釈尊のもとへ弟子の学生たちとともに訪れた。という場面が書かれている。
釈尊は、パーヴァリに、次のように語った。
「無明が、〔その裂けるべき〕頭であると知れ。明知が、信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭〔という言葉で象徴される無明〕を裂けさせるのである。」(196頁)
 ※「無明」とは無知のこと。

安心感を与えるのが本来の仏教

【植木】「釈尊は、『頭が七つに裂ける』というバラモン教で用いられていた脅し文句の意味を塗り替えてしまったのである。
そして、『バーヴァリは、諸々の弟子とともに楽しくあれ。また学生よ、あなたも楽しくあれ。末長く生きよ』(197頁)と励まして、バーヴァリらを安心させた。
人に不安感を与えるのではなく、安心感を与えるのが本来の仏教であった。
人に恐怖心を与えて布施を強要することなど、あり得べからざることである。それは無畏施という言葉にも表われている。恐怖に囚われている人々から不安を取り除き、安心感を施すことである。」(仏教、本当の教えp30-39)

 現在の日本の宗教団体でも、この「頭破作七分」という言葉を教義に引用しているところもあるようだが、これは仏教ではなくバラモン教で人を脅かすために使われていたものだ。

ありのままの真実に目を向けさせた釈尊

【植木】「釈尊の弟子になった人たちの中には、火の儀式を司ることで有名なカッサバ(迦葉)三兄弟もいた。古くから行なわれてきた火の儀式に対して何ら疑問も差し挟むことなく、取り組んできたのであろう。それに対して、釈尊は道理に照らして、ありのままの真実に目を向けさせたのである。」(同p39)

ホーマ(護摩)の否定

【植木】「釈尊が、送信やドグマなどを否定した背景には、当時の既成宗教、特にバラモン教が迷信によって人々の心を迷わせていたという事実があった。その代表的なものが、この火を用いた供儀という迷信である。
宗教的権威者であるバラモン階層は、呪術的な祭儀を司っていた。その祭儀は、「ホーマ」と呼ばれる火祭りからなっていた。(中略)動物供儀、生けにえの儀式である。(中略)
これに対して、釈尊は『アヒンサー』(不殺生)を唱え、バラモン教のこうした祭儀を堕落した祭儀として否定した。」(中村元著「原始仏典を読む」p104)

迷信は畜生の魔術

 また、「ディーガ・ニカーヤ」という仏典には、ホーマ(護摩)の術など、当時行なわれていたと思われる迷信が一つひとつ列挙され(p67-70)、それぞれの末尾で、「このような畜生の魔術から離れていること――これが、またその人(修行僧)の戒めである」(p70)と結論する言葉が繰り返されている。
「ホーマ」は、漢字で「護摩」と書かれ、真言密教に取り入れられた。しかし、釈尊はこの「ホーマ」の儀式を否定していたのだ。
 火の供儀は、火を燃やすことで過去世からの穢れをなくすことができると信じられて、行なわれており、火を神聖なものと考え、火を崇拝することによって身が浄められ、苦から解脱することができるという教義のようだ。

鍛冶屋の例え

【植木】「それに対して釈尊は、『火によって穢れがなくなるというのなら、朝から晩まで火を燃やして仕事をしている鍛冶屋さんが一番穢れが少なくて、 解脱しているはずである。それなのに、カースト制度では最下層に位置付けられているのはどうしたわけであるか』と批判している。大変に道理にかなった言葉である。
釈尊は、現に亡くなる直前に鍛冶工の子チュンダのもてなしを受け、教えを説いている。」(仏教、本当の教えp30-39)

 以前、某掲示板で、密教信奉者の方が荒らしまくっていたので、この鍛冶工の例えを伝えると「高僧が使う火は別だ」というトンチンカンな答えをされ逃げられた。ここに詐欺師は正体を現すものだと思ったものである。

心の内面を輝かせる「火」を燃やせ

【植木】「バラモン教は、人間の心の外側のことである火の儀式を重視して、形式的な儀式中心主義に陥っていたと言える。
釈尊は、それに対して心の内面を輝かせる『火』こそ重要なものであり、それを『水遠の火』であると言っていた。


ところが、後に仏教がヒンドゥー教の影響で密教化するにつれて、このホーマの儀式が仏教の中心的なものであるかのようになってしまうのである。」(同p36)

※七世紀以降、呪術的世界観やヒンドゥー教と融合して密教が興る。


沐浴の否定

【植木】「このほか、釈尊は沐浴についての迷信も否定していた。ガンジス河でバラモンが寒さに震えながら沐浴をしていると、女性出家者のプンニカー尼が通りかかって、問いかけた。
『何をしていらっしゃるのですか?』
『分かっているくせに、あなたは、そんなことを尋ねている。沐浴することによって、過去世の悪業を洗い流しているのだ』と 、バラモンが答えた。

そこで、その女性出家者は、次のように批判した。
『じゃあ、魚や亀やワニや蛙は生涯、水につかりっぱなしです。ということは、魚や亀やワニや蛙のほうが、より解脱しているはずですね。

それなのに、畜生として人間よりも低く見られているのはなぜでしょうか。あるいは、水には何が善業で、何が悪業かを判断する能力もあるのですね』と皮肉を言った。
そして、『風邪をひかないように頑張ってください』と言って去ろうとした。
バラモンは、その言葉でハッと目が覚め、仏教に帰依することになった。
その女性出家者は、出家前は『水汲み女』と呼ばれて、カースト制度の中では極めて低い階層であった。

しかも男尊女卑の著しいインドで、女性の一言で最高階級のバラモンが宗旨を変えて仏教徒になった。
こうしたことが、原始仏典に記されており、仏教は迷信じみたことを徹底して批判していたのである。」(仏教、本当の教えp30-39)

呪術・占いの否定

神秘主義の否定

 迷信の中には、超能力、神通力も含まれていると考えられる。原始仏教では、この超能力や、神通力に頼ることも否定している。
釈尊の弟子に、「智慧第一」とも「真理の将軍」とも称されたシャーリプトラ(舎利弗)がいるが、「私は解説して、悩のない者となった。六つの通力(六通)を得ることを目的として仏道を修行しているのではない」ということを自ら明言している。

呪術の否定

 最も古い仏典とされる「スッタニパータ」において、釈尊はバラモン階級をはじめとする人たちが行なっていた呪術などを用いることを、次のように明確に否定している。
〔仏教徒は、呪術的な儀式のしきたりを記した〕呪法と夢占いと相の占いと星占いとを用いてはならない。

鳥獣の声〔を占うこと〕、〔呪術的な〕懐妊術や医術を信奉して、従ったりしてはならない。(p181)
ここでいう医術とは、当時の迷信じみた呪術的な医療のことである。

星占いの否定

 「ジャータカ」という物語の中には、「星の運がめでたくない」という言葉に囚われて、せっかくのめでたい結婚を台無しにしてしまいそうになったカップルの話が描かれている。
これに対して、釈尊は、「星占いが何の役に立つのでしょうか。娘をめとることこそが実にめでたい星ではないのですか」(P258)と語っている。

星占いによって人生を左右されることの愚かさを指摘し、それを否定しているのである。

六曜を転化した似非日本

 中国発祥の時刻占いが由来の六曜は、中国で時間を区切るものとして使われていて、 太陽が昇ってから陽が落ちるまでを3つ、夜に入ってから日が昇るまでを3つというように、1日を6つに区切り六曜を当てはめたとされる。
 日本には鎌倉時代末期~室町時代に伝わり、当初は現在の曜日のようなものだったのが、いつしか縁起のよい順並べだとし、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口の6種の曜を考え出し占い師などの商売にされた。
 そもそも、「縁起」についても拙稿「⑩縁起」「㉝北枕のウソ」「㊷死とはⅥ」「㊸自分とは」で繰り返し書いて来た通り、日本では本来の意味とは違うを都合よく転化した似非用語だが、今の日本人は本来の意味などどうでもよく、その時の雰囲気や自己満足で使っているのが実態だろう。
「お日柄もよろしく」「ご縁があって」など誰が決めているのか?これが現代の日本人思考だ。

姓名判断の否定

 また、釈尊は、「名前を聞いて吉凶を判断することだけはあってはならない。私は、一緒に泥んこ遊びをした幼な友達を名前だけのために捨てることはできないでありましょう」(同p14-17)と語っている。つまり、姓名判断的な行為も否定していたのである。

迷信やドグマなど誤った考え方は、苦を生み出す原因

正しく見て・考えて行動する

 こうした迷信やドグマなど誤った考え方は、苦を生み出す原因であるから、ものごとを正しく見て、正しく考えて、正しく行動するということを八つの教え(八正道)で説いている。

 以上、見て来たが、釈尊の教えは、もっとも理に叶ったものだが、人間の脳は思い込んだ瞬間に騙されると養老先生が言う通り、簡単に信じ込んでしまうので、人間の苦はなくならない。
だから、釈尊は迷信・ドグマを明確に否定をしたのだろう。