仕事とは、社会に空いた穴を埋めること

釈尊の教えは思想

⑳ 使用人のつとめ

雇用主は使用人に尊敬と愛情を持ち接しよ

自分に合った仕事がるはずだなんて、ふざけたことを考えるんじゃない。(養老孟司)

 前回は雇用主のつとめを書いたが、今度は使われている人のつとめを次の五つ説かれているので、中村先生の解説を見ていく。
【中村】「ここでは「愛する」ということばが使われています。およそ古今東西を通じて「使用人は主人に奉仕し、主人は使用人を愛すべし」という道徳があまねく説かれているのに、原始仏教が強調したところの道徳では、それぞれに反対の徳目をあてがっております。すなわち使用人に対しても尊敬と愛情をもって待せよ、というのです。
ここにわれわれは、原始仏教の崇高な宗教的精神の現れを認めることができるのであります。

第一に、主人よりも朝早く起きること。
この当時は大体使用人は主人といっしょに暮していましたから

第二に、主人よりも後に床につくこと。


第三に、与えられたもののみを受けること。
 これは注釈書によると『何ものをも盗みによってとることなく、主人から与えられたもののみをとる』のであって、この心がけはいつの時代においても必要なものでしょう。

第四に、その仕事をよく果すこと。
 働く人間の本質は仕事がよくできるということにあります。ここに職人の誇りがある。

第五に、主人の名と称賛とを吹聴すること。
 これは「集会の中で、たまたま話が起こった時に、『われらの主人のような人がいるだろうか?われわれは自分が奴僕(ぬぼく/召使の男)で あるということを知らないし、またかれらが主人であるということも知らない。そのように、われわれを思いやってくれるのである」と言って、(主人の)徳をたたえる話を広める」のです。使用人が、主人なり雇用者のかげ口を叩くということは実際によく行なわれることである。しかし雇用者の保護を受けながらその悪口を言うということは聞き苦しいことです。
仏教では、主人に対する道をまもっていくところに美しさを見出しており、また雇用主と使用人との対立感がなくなったところが理想であると考えられているのであります。
この主従の倫理は、インド及び近隣諸国の古代社会における主従関係について述べられているにすぎませんが、その基本的な精神は、近代的な工業・農業・商業の領域における雇用関係においても、異なった意味で生かされるべきものがありましょう。

仏教は、世界を変革するために、なんらかの機械的な公式にたよるということはない。 どこまでも人間の積極的な善意に依存するのです。社会改革もそれに基づいてのみ可能であると、最近代の南アジアの仏教徒も考えているのであります。」

仏教はどこまでも人間の善意に依存する

 現在の様な住み込みではなく、法人経営者までが勤め人の時代ではなかなかこういう関係を築くのは至難の業かも知れない。現在はそれぞれの立場で置き換えて捉えないとならないと思う。

養老孟司先生は「自分に合った仕事」なんかないと言っているので以下に引用する。
「自分に合った仕事なんて探すな」 養老孟司先生の語る「働くってこういうこと」

「自分に合った仕事」なんかない

「(ニートなど働かない人を)調査をすると、働かないのは『自分に合った仕事を探しているから』という理由を挙げる人が一番多いという。
これがおかしい。20歳やそこらで自分なんかわかるはずがありません。中身は、空っぽなのです。
仕事というのは、社会に空いた穴です。道に穴が空いていた。そのまま放っておくとみんなが転んで困るから、そこを埋めてみる。ともかく目の前の穴を埋める。それが仕事というものであって、自分に合った穴が空いているはずだなんて、ふざけたことを考えるんじゃない、と言いたくなります。」


 私の勤め人時代の体験でも、子会社に派遣社員として入って来た若い青年と一緒に仕事をしたことがあるが、ある日辞めると言っているので、その理由を尋ねるとやはり、「自分に合った仕事を探しているから」と言う。
どんな仕事をしたいのか尋ねるがそれも探しているという。私が養老先生の言葉に近いニュアンスを話したが、彼は理解できなかった様だ。


次回は友人の倫理を書く予定。