釈尊が説いた親のつとめ 子供は手入れ/養老孟司

釈尊の教えは思想

⑱ 親のつとめ 子供は手入れするもの

前回の”子のつとめ”に続いて、今度は親のつとめとして説かれているので見ていきたい。
子供の教育および指導についての親の一般的義務として、中村先生は次の様に解説されている。

中村】「両親は次の五つの仕方で子供を愛するというのです。
第一は、悪から遠ざけること。
 自分の子女を罪悪から守ってやりたいという気持は、昔でも同じだったことがわかります。
第二は、善に入らせること。よいことをさせる。
第三は、技能を修学させること。
 これは今日の言葉で申しますと、学校へ入れて勉強させてやるというようなことが、それに近いわけです。あるい は家の仕事を教えるというようなことです。
第四は、適当な妻を迎えること。ということです。
第五は、適当な時期に相続をなさしめること。
 現代においては家の観念がなくなってきていますから、相続というようなことは問題もありましょうけれども、現実に仕事を経営していくためには、やはり最小限度の単位というものがいるわけです。農村だったら耕地は最小限度のまとまった単位がなければならないわけです。それはずっと親から子に受け継がれますから、その受け継ぐことに対する配慮が当然なされるべきなのです。」

日本は少子化

 ここまで、釈尊の親子の倫理について書いてきたが、現在の日本は少子化が問題になっている。
養老孟司先生が、「少子化が止まらない本当の理由」として、PRESIDENT Online(2023/02/21-22)に寄稿されているので、その中から一部を抜粋し紹介したい。


養老孟司「日本の少子化が止まらない本当の理由」「目的達成を重視する子育ては必ず失敗する」

日本の少子化が止まらない本当の理由

【養老】「いきなり大人になってくれたら便利だろう」と思っている「現実ではない」ものは消されてしまう。
不動産業者にとっても、財務省のお役人にとっても、地面に生えている木なんて、切ってしまうだけのものです。誰かに切らせて、更地にする。どうして切るかというと、本来「ない」はずのものだからです。
そこに木が生えているから、家の建て方を変えよう。川や森があるから、町のつくり方を工夫しよう。そう思うなら、木や川、森はあなたにとって現実です。
でも、更地にする人にとっては、木は「現実ではない」
 現実ではないのですが、実際には生えていますから、邪魔物扱いをして切ってしまう。まさしく木を「消す」のです。
頭の中から消し、実際に切ってしまって、現実からも消すのです。
 不動産業者もお役人も、自分が扱っているのは「土地そのもの」だと思っている。土地なんですから、更地に決まってるじゃないですか。まして地面の下に棲んでるモグラや、葉っぱについている虫なんて、まったく無視されます。「現実ではない」からです。

子供は「必要悪」から「手入れ」へ

 こういう世界で、子どもにまともに価値が置かれるはずがありません。子どもの先行きなど、誰もわからないからです。子どもにどれだけの元手をかけたらいいかなんて計算できません。さんざんお金をかけても、ドラ息子になるかもしれない。
 現代社会では、そういう先が読めないものには、利口な人は投資しません。だから、自然と同じように、子どももいなくなるのです。
 いや、子どもはいるじゃないか。たしかに、子どもはいます。しかし、それは空き地の木があるのと同じです。いるにはいるけれど、子どもそれ自体には価値がない。現実ではないもの、つまり社会的・経済的価値がわからないものに、価値のつけようはないのです。
木を消すのと同じ感覚で、いまの子どもは、早く大人になれと言われています。
都市は大人がつくる世界です。都市の中にさっさと入れ。そうすれば、子どもはいなくなりますから。

 都会人にとっては、幼児期とは「やむを得ないもの」です。はっきり言えば、必要悪になっています。子どもがいきなり大人になれるわけがない。でも、いきなり大人になってくれたら便利だろう。都会の親は、どこかでそう思っているふしがある。
 ところが田畑を耕して、種を蒔いている田舎の生活から考えたら、子どもがいるというのは、あまりにも当たり前のことです。人間の種を蒔いて、ちゃんと世話して育てる。育つまで「手入れ」をする。稲やキュウリと同じで、それで当たり前です。そういう社会では、子育てと仕事との間に原理的な矛盾がないわけです。具体的にやることも同じです。『ああすれば、こうなる』ではなく、あくまで「手入れ」です。」
(2022/02/22)

目的達成を重視する子育ては必ず失敗する

【養老】現代は人生がカーナビに従う車のようになってしまった時代であると、しみじみ痛感しますね。ナビの案内に従えば、目的地までは効率よくたどり着けるでしょう。しかし、道中にこんな山があるとか、綺麗な花が咲いているといった道草を食う行為が忘れ去られてしまった。目的に向かって最短距離で走り続ける人生は、まさしくカーナビそのものです。
よそ見をしたり、道草を食ったりしながら、カーナビには絶対に出てこないルートを進むなかで、さまざまな実体験を積み上げていくのが人生だと思うのですが。
(2022/02/21)


ここまで、慈悲の理想として、「人間はどう生きべきか」の夫婦と親子の倫理について書いてきた。
次回は労使の倫理に入りたい。